けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

生きづらさについて考えてみた(前編)

『窓際のトットちゃん』を読んでいる。

 

 

私は黒柳徹子が好きだ。

誰だったか忘れたが、どこかの局のアナウンサーが、新幹線で徹子の後ろ姿を見かけて挨拶しようと声をかけたら、返事をしないので、何かと思って前にまわって見てみたら、ちょうど徹子は鼻の穴に100円玉が何枚入るかを試しており、奮闘していたのでそれどころではなかったというエピソードがとても好きだ。

80歳をすぎてここまで天真爛漫な性格をした人はかなり希有だろう。

 

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当初、この本を取るたびに、なぜか涙がぼろぼろとこぼれていた。

 

いろいろなところで語られているが、トットちゃんこと黒柳徹子発達障害だと言われている。当時は今のような診断基準が存在していないので、トットちゃんはただの「変な子」という扱いだ。

入ったばかりの小学校でまともに授業を受けることができず、なんと1週間で退学を勧告される。戦前の小学校はハードコアである。

退学した小学校のかわりに母親の朝子さんが見つけてきたのが「トモエ学園」で、このトモエ学園の校長によって、トットちゃんは一気に受容される。校長である小林先生の人間的な暖かさによって、トットちゃんは変わり始める。この過程が素晴らしくて胸を打つ。

 

トットちゃんの家は戦前でもかなり裕福な層だ。だからこそ「トモエ学園」というオルタナティブな選択肢を選ぶことができた。

だがこれが、自分を拒否するような小学校にずっと通わなければならず、親が「お願いですからこの子を学校においてやってください」と必死に頼んだり、教師にヒステリックに怒られながら小学校生活を過ごさなければいけなかったとしたら、おそらく今日、私たちが黒柳徹子という人物をテレビで見かけることはなかったかもしれない。

 

両親の適切な判断力や校長先生の圧倒的な受容があってこそ、彼女は自己肯定感を得ることができたのだ。

 

 

 

ここしばらく、はてブ界隈で、「生きづらさ」をテーマにしたエントリをちらほら見かけるようになった。そこで、今回このブログでも、この方面を取り上げてみたいと思う。

 

関連エントリ

gattolibero.hatenablog.com

 

nyaaat.hatenablog.com

 

anond.hatelabo.jp

 

anond.hatelabo.jp

 

いま、この現代で、生きづらさを抱えている人は山ほどいるわけだが、結局のところ

個体としてどのようなアビリティを装備しているかだろう。生きづらさの代表的なものでは、貧困、障害、病気、被災、病身の身内、年齢差別などがあるし、

逆に、生きづらさを軽減させうるものとして、富裕、健康(心身ともにタフな肉体)、容姿が良い等があると思う。これに環境の因子が加わり、それぞれのアビリティを少しずつ変化させつつ、人生ステージに対応して生きているのが、人間という生物だと認識している。

身も蓋もないが、心身ともにタフで、そしてお金がタップリあれば、人生は楽しいものである。こんな単純なことなのに、それを実現するのがとても難しい。

 

 

発達障害の確定診断のとき、WAIS -3という知能検査を受けたが、この検査が見事なまでに自分の特性をよく現していた。

言語性IQなどに問題はなく、105程度を持っているのだが、処理能力だけが異常に低い。処理能力だけが70台で、ここだけが突出して異常に低い。

日常生活で言うと、複数のことを同時にこなすことができない。いくつものことを言われると、処理ができなくなって理解できない。

だから、パッと見はまるで普通なのに、処理能力のみが低すぎるために健常者と同じだけの仕事量をこなすことがまったく無理なのだ。

 

私も、最大瞬間風速的に、ほんの一瞬だけがんばることはできる。だが、それは無理してスーパーサイヤ人をやっているわけで、次の日にぐったりと寝込んだりする。

 

 処理能力がきわだって低いということは、当然そのぶんだけ脳に負荷がかかってくるということでもある。だからすぐに脳が混乱をきたすし、理解できなかったことを処理するのにまた時間がかかる。

普通の人がこなせることが、まったくできない。

では、それを補うような突出した高い能力を持っているかといえば、そうでもない。

ただただ処理能力が低い。

 

こまごまとした日常生活の中で、私一人が遂行できない、どうにも理解できないということが多々あり、そのたびに私は自己肯定感を削られていった。

見た目がまったく普通に見えることも、よけいに苦しみを複雑にした。

 

そんな私だが、発達障害者の社会適応の鍵は、自律神経にあるのではないかと思うようになってきた。

後編ではこのあたりを具体的に書いていきたいと思う。

 

 

私は子どものころ、ADHDがかなり強くある子どもだった。小学校の担任からは「まるでトットちゃんだ」と幾度となく言われていた。

落ち着いて授業を聞くことがまったくできず、なんのために座り続けなければいけないのかも理解していなかった。

 

国語が好きで、算数の時間がきらいだった。

算数の時間に国語の教科書を読んでいたら注意された。なぜ皆と一緒の勉強をしなければいけないのかが理解できなかった私はこう言った。

「どうぞみなさんは算数のお勉強をしてください。私は国語の勉強をします。」

 

 

 

 

 

 

後編へ続く。

 

nenesan0102.hatenablog.com

 

 

 

 

 

恋人間経済格差に苦しんだ話

少し前の記事だが、ピピピピピさんが面白い記事を書いておられた。

pipipipipi-www.hatenablog.com

 

今回のブログは身バレ防止のため少しフェイクが入ります。

 

 

はじめに申し上げておくと、我が家はとくべつ貧困家庭ではなかった。

父親は国立大学の教員をしていて、国立大というのは独自の給与体系があるのだが、制度上は国家公務員で、それなりの給料はもらっていたと思う。

だが、父親はいわゆる経済DVみたいなことを母親に強いていて、大学からの研究費用が足りないので、母親には最低限の家計費を渡し、あとのほとんどを自分の研究に注ぎ込んでいた。年に百万前後くらいは本に使っていたと思う。父親の机の上に、一回で17万円分の本を買っている本屋のレシートがあってびっくりしたこともある。

 

 

後年、母に聞いたのだが、私が子どものころ、一家の生活費は5人で10万円だったそうだ。ここから5人分の食費、母の病院代、被服費、子どもの給食費、学校関連の費用などをすべてまかなっていたらしい。

物価が今よりもわずかに安いとはいえ、育ちざかりの子どもが3人いてこの数字はかなりきつかったのではないかと思う。実際、私は子どものころにアイスを食べたことがなく、牛乳パックを冷凍庫で凍らせたものを「アイス」だと信じていた。母親が「これはアイス」と子どもたちを騙していたからである。

 

小学生になると、休みの日に友達どうしで電車に乗ってでかけるということが何度かあったが、母親は電車賃しかくれないので、他の子らがマクドなどで食事を取っているあいだ、妹と二人で何も食べずに時間をつぶしたり、1人だけ飲み物で済ませたりなど、ちょくちょくしんどいことが増えてきた。このころになると、「うちにはお金がない」というのを強く認識するようになってしまっていた。

 

私は高校へ進学しなかったのだが、理由は母親が「制服が高くてしんどい」と電話で話しているのを聞いてしまったからである。

 

 

さて、大学生のころである。

(※大学の費用は祖母が貯めておいてくれたもので、大検を経て大学へ入学した)

 

大学生になってとても気楽だったのは、まわりに貧乏学生が一杯いたことである。

 

当時よく行っていたのは、丸二食堂や、当時北白川にあったマダンや、学校の学食で、自分の中で外食といえば500円前後が相場で、1000円を超えた外食など数えるほどしかしたことがなかった。学食には100円のにゅうめんがあった。助けられた。

いつもお金はなかったが、まわりも同じくらいなかったので本当に気楽だった。

 

 

あるとき、サークル関係のイベントで知り合った男子と仲良くなった。

あとで知ったのだがこの人は医学生だった。

親は開業医で、かなり繁盛しているらしい。

 

もともとが鈍いのもあって、かなり親しくなるまで、私は格差に気づかなかった。

 

 

ピピピピピさんのブログにあるのとは反対で、当時の私はとにかく男におごられてはならない!という強い信念を持っていた。

だから彼氏にもおごってもらったことは一度もなかった。相手が申し出てもかたくなにおごられることを固辞していた。

 

当時のインターネットといえば、まだ2ちゃんがやっと知名度を持ってきたあたりで「モナー」とか「だめぽ」とかいう言葉が2ちゃん用語としてあったのだが、女叩きももちろんあって、男におごらせる女は最低!という風潮がとても強かった。

 

私はこれを真に受けて、すべての食事をワリカンにしていた。借りを作りたくないという気持ちもあった。

 

私はこの医学生と付き合い始めたのだが、医学生は、食事といっても丸二なんかに行かなかった。

オシャレなカフェとかに当たり前のように行く。一回の費用が丸二や学食の2〜3倍かかるところだ。

頑張ってワリカンにしていたら、私はだんだんお金がなくなってきた。

だけどそのことを言えなかった。お金がないのは私の問題だからである。

 

医学生は、基本的にはすごく良い人だった。

お金があることを鼻にかけるわけでもなく、エリートであることも特別、自慢もしなかった。ふだんの服装などもすごく質素で、親しくなるまでここまで裕福な人だとはまったくわからなかった。

 

だが、ときおり出てくるエピソードがやっぱりすごい。

 

ご実家は神戸なのに、お正月は東京に移動して、親しい親戚同士で集まって帝国ホテルで過ごすのが毎年の恒例行事だとか、ある日腕時計が壊れたので、母親に「時計が壊れた」と電話をしたら次の日に30万振り込まれていただとか。

「私の時計の100倍だね」と言ったら「そうね、アハハ」と言われた。

(私の時計が本当は1000円だなんてとても言えなかった。)

私はもともとが貧乏育ちなので、サラリと話されるお金持ちエピソードにビビってばかりいた。

 

半年ほど経ったころには、愛情よりもしんどさのほうが上回ってしまっていた。

何しろお金がない。

 

バイトが忙しいだのなんだの嘘を言って会う頻度をなんとか減らしているが、会うたびに予算以上のお金が出て行くのがしんどいわけである。だがワリカンをやると決めた以上はこれを守るしかない。「わけを話しておごってもらおう」とかは一切考えもしなかった。(それは私がアスペだからである)

知り合った頃は、自分と同じくらいの貧乏学生だろうと思っていた。そこがまずかった。

 

びっくりしたのだが、医学生のひとつ下の妹は現役タ◯ラジェンヌだった。

そう、あの有名な男装女性歌劇集団である。

 

付き合って半年ほど経ったある日、妹の舞台を観に行かない?と誘われた。

なんでも「家族枠」という特別な枠があり、良い席を優先的に取れるらしい。

家族枠なので、父と母も来るけどそこに君も入れてあげるよ。観劇後は皆で食事に行こう。

 

もちろん、私は、観劇に行くのであればチケット代は自分で出すつもりでいたし、その後の食事代も自分で出すつもりだった。だがこの二つを同時にとなるとすごく厳しい…。それどころか、その時の私には、宝塚までの電車賃すらなかった。

 

何かがスパークした。この人とは住む世界が違いすぎる。もうあかん、もう無理。

「すみません、行けません」

とだけメールを打って、その後一切の連絡を断ち切ってしまった。

 

 

今から思えば、私がよくなかったのはネットでの女たたきを鵜呑みにして、かたくなにワリカンをつらぬいたことだ。

ネットでの知らん誰かの意見よりも、相手本人がどう考えているかが重要なのに。こんな大切なことに、私はまったく気づいていなかった。

 

私は、相手にお金を出させるのは最低なのだ、最低な女にはなりたくない!と懸命にがんばってしまった。結果として相手から逃げ出してしまった。私は自分だけがつらいつもりだったが、彼だって困惑したと思うし、突然の拒絶に心が痛んだろう。理由も言わずに無言で去って行くほうがよほど最低だ。

今だからそう思えるが、当時はとにかくとらわれていた。

 

 

医学生は、自身が裕福に育ちすぎてしまったので、他者が困窮しているかということをみじんも考える人ではなかった。

私はこの人に「お金がなくて苦しかった」というのを最後まで言えなかった。なぜか言うことができなかった。

 

 

その後、何ヶ月かして、たまたま顔を合せる機会があり、この人に謝ることができた。

「あのときはごめん」とだけ言った。

意外なことに前の彼女も同じようにして無言で去っていったという。

私は、名も知らぬ前の彼女にしばし想いを馳せた。

 

 

この話を母親にしたら、口をあけて絶句していた。

「どうして私の娘なのにそんなにバカなの」と言われた。

 

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記

年末から正月明けにかけて大変な無気力に襲われてしまい、ほとんどブログが書けなかった。書きたいものはあるんだけど、やっぱり気後れしてしまうかんじだった。

 

 

昨年末から、カウンセリングに行き始めた。

じつに数年ぶりだった。

 

私の抱えているものがあまりにも酷いので、数年前、カウンセラーさん側からNGを出されたことがある。(この人自身病んだ感じの人だったのだが)

これが嫌な思い出になり、なんとなくカウンセリングを避けてしまうことが多かったが、偶然にベテランのカウンセラーさんに出会うことができ、相性が良さそうなのもあって、なんとか続けられそうである。

 

カウンセリングを始めて、自分のことを冷静に分析できるようになった。

 

 

このブログはもともと、私自身のルサンチマンから生まれたものだ。

発達障害である自分がつらい。ACである自分がつらい。虐待された過去がつらい。

弱い自分がつらい。現実と折り合いをつけられない自分がつらい。

 

 

こういうつらさをなんとか吐き出せないかと思って書き出したのがこのブログだ。

 

怨念みたいなものがあったからこそ書けたエントリもある。

もう死にたいと思いながら書いたエントリもいくつもある。

 

 

このところカウンセリングと投薬によって、だいぶ気持ちが安定してきた。

もちろんルサンチマンはまだまだあるし、発達障害ゆえの苦しみも、ACの苦しみも、おそらくずーっとこれからも折り合いをつけていかねばならないと思う。

 

もしかしたら胸にあるわだかまりが取れて、原動力となるルサンチマンがスコンと抜けてしまうかもしれない。そんなこともあるかもしれない。

 

その日が来たら、このブログを卒業できるのかなと思っている。

 

 

 

 

おわり

あけましておめでとうございます

昨年、2016年はものすごくツライ年でした。人生の中でも、これほどきつい年あったかなというくらい苦しい年でした。

この苦しみをなんとかしたくて、私はブログを書き始めました。

 

ところで、昨年度、下鴨神社へ初詣に行ったんですが、年明けから「今年は苦しい年になるんじゃないか」という気持ちがべったりと拭いとれなかったのを思い出します。

結果として、やっぱりまれに見る苦しい年になったんですけど。。

 

結局、12月30日に旦那と大げんかしたりして、なんか最後の最後まで苦しい年やったなーという感じで。

 

旦那との喧嘩は泥沼化してて、原因はアスペルガーである私の性質に起因するところが多いので、何かもうどうしようもなく膠着状態なんですけど、でも、今年はそんなにひどい予感はないので、まぁなんとか底を打ったのかなーという感じです。

 

旦那はものすごく落ち込んでいますし、つらそうです。

人間関係は難しいです。

 

 

 

おわり

 

京都高島屋限定551牛肉麺が鬼ウマかった話

とても久々にグルメブログです。

 

先日、高島屋京都店へ行ったんですが、高島屋の地下に551蓬莱のイートインレストランがあります。

お目当てはいつも海鮮麺か海鮮飯で、お手軽中華で、なんともいえず美味しいんですよ。

 

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海鮮飯。この淡さがすごい好きです。

 

夫が頼んだのが、この牛バラ麺なんですが、、

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これがめちゃくちゃ旨い!!!!!(゚ω゚)

 

夫…チョイスのセンスありすぎですよ…

 

これ、よく台湾とかにある牛肉麺だと思うんですけど、いやー、美味しかったです。

そしてなんと京都高島屋限定だそうです。

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いやー。美味しかったです。

明日にでも行きたいくらい美味しかった。

 

細麺×透明のスープというのにとことん弱いんですが、これは本当に美味しかった。

もともと牛肉が苦手であまり食べないんですけど、これはお肉がほろほろになってて、噛まなくてもスーッとほどけるような感じで。

 

そのあと「招き猫展」へ。

なんとありがたいことに、この展示はすべて撮影OK。

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とにかくいろいろな猫がいましたが、作家さんものが面白い!

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(愛を感じる…)

 

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作家もりわじん氏の招き猫。大きさもすごいが、精巧さがすごい!

 

 

他にも何百体もいたので、めちゃくちゃ写真を撮りまくりました。

招き猫ってよいですね。

 

 

 

 

おわり

アダルトチルドレンについて思うこと

ブコメでコメントをいただき、少し追記しました。

 

先日から匿名ダイアリー界隈をにぎわわせている増田が、とてもつらそうな状態になってきた。読んでいて泣けてきた。

anond.hatelabo.jp

 

もしかしたらこの人は、夫からモラハラのようなことをされているのではないか。

だから外へ救いを求めて、それが不倫という形でしか行えないと思い込んでいるのではないか。

 

以前、柴門ふみの恋愛関係のエッセイを読んでいたら、とても面白い記述があった。

男の浮気は体の欲がほとんどだ。

一方、女の浮気というのは心理的なものだ。

誰かに話を聞いてもらいたい、さびしい。話を聞いてもらう代償として体を与える。それが女の浮気なのだそうだ。

もちろん女にも性欲はあるが、男が性欲メインで浮気に走るのに対し、女が強い性欲から浮気に走るというのは、男に比べるとかなり少数らしい。

(あくまでも柴門ふみの統計なので本当のところは知りません)

 

 

この増田はアダルトチルドレンなのではないかと思ったので、当初からそういう主張のコメントをつけてきた。

 

私自身もアダルトチルドレンだ。

そのことで苦しみが深かったため、自助グループに通っていたこともある。

自助グループへ行くと、人生に苦しんだ人にたくさん出会う。

 

私はこれまで「発達障害がつらい」というエントリをいくつか書いてきたが、これは実は違うのではないか。つらいのはアダルトチルドレンなのではないかと思うようになった。

発達障害の特性を持って生まれても、周囲から愛情をたくさん注がれ、自己肯定感に満ち満ちた人もいる。彼ら彼女らは、安定した心と自己肯定感、自己尊厳感を持ち、その武器で社会できちんと戦っていけたりするのだ。

 

逆に発達障害の特性を持っていなくても、機能不全家族に育ち、他者との信頼関係を築くことができず、親からの暴力に怯えて育った人は、自己否定感情に強く囚われ続け、そのことで一生苦しみ続けてしまう。わざわざ自らを苦しめ、追いつめる選択をしてしまうから、ハードな人生を歩んでることも少なくない。自助グループでは、精神面の苦しさのあまり自傷行為をしている人がかなりいた。

 

 

私の行った自助グループで印象的だったのは、対人関係に悩むあまり長期的なパートナーとの信頼関係をうまく築くことが出来ない人がとても多くいたことだ。

皆いい年だが、誰も結婚していなかった。機能不全家族で育ったために、どのような家庭を築き上げればいいのかがわからないのだ。

アダルトチルドレンというのは、いわばサバイバーだ。

彼らにとって「家庭」とは、心休まる場所ではなく、暴力に満ちた場所だった。

彼ら彼女らには、どのような状態が本来あるべき家庭の姿なのかうまくつかめない。

だからできるかぎり家庭を作ることから逃げていく。かつてあった恐怖を思い出すからだ。

 

築き上げた人間関係をぶちこわしてしまう人もいる。

そのほうが自分にふさわしいと思うからだ。

 

 

今から20年くらい前に、「アダルトチルドレン」という言葉が出てきたころ、この言葉を大きく誤解する人が多くいた。

そして、「親のせいにするな」という風潮が吹き荒れた。

アダルトチルドレン=ACは、今も基本的には忌避されがちな概念だと思う。

しかし、実はもう、かなり多くの人がアダルトチルドレンとしての苦しみを抱えていて、それをどうしてよいのかわからなくなっている。こういう場面を私はよく見てきた。

 

生まれてきたことを肯定できず、すぐに死にたくなったり、人間関係のパートナーシップに居心地の悪さを感じるのはACの要素がとても強いだろう。

 

以前もこのブログで書いたが、自己肯定感がきちんとあって、健全で幸せな家庭に育った人は、その家庭の心地良さを知っている。だからすみやかに結婚して行くし、家庭を持つことにためらいがない。

だが、ACの側面を持つ人はここにためらいが出てしまうので、家庭を持つ事をとても躊躇する。増田のように家庭をすでに持っていながらも、どのようにそれを維持してよいのかわからなくなっている人もいる。

本当は、アダルトチルドレンに苦しむ人はもっともっと多いのではないか。

 

家の中のことは外には見えない。

だから難しい。 

 

増田はすみやかに心療内科もしくはカウンセリングの門をたたいてほしいと思う。

 

 

※追記※

こんなコメントをいただきました。

アダルトチルドレンについて思うこと - けっこう毛だらけ猫愛だらけ

昔、幼少時に父親から酷い虐待を受けて育った女の子と付き合ってるって男の人から愚痴聞かされたけど、彼は彼女に今までのぶんも愛情を注ぎたいのに彼女はいつも彼に喧嘩を売り暴れるので辛いと言ってたわ。

2016/12/22 09:48

b.hatena.ne.jp

 

おそらくですが、ボーダー(境界性人格障害)だと思います。

私自身も、かなりひどい虐待を受けて育ったので、20歳頃にはもう立派なボーダーになっていました。

ボーダーの人というのは、相手が虐待されずに育った事に強い嫉妬心を持つことがあります。自分がいくら望んでも手に入らなかったものだからです。

相手のことを好きなのですが、同時に恐ろしいくらいの嫉妬心を持っている。そういう中で自我がうまく保てずに錯乱したり自傷をしたりする。へたすると愛情を注がれることにプレッシャーを感じたり、苦痛を感じて相手から逃げ出したりします。

相手の愛情も試します。だからボーダーと付き合うと、付き合った人は試し行為と自分の愛情とのあいだで気持ちが錯綜して、恐ろしく疲れ果てます。

これはもうプロの領域です。素人が愛情でなんとかできる次元ではないということをはっきり知ってほしい。

 

 

 

 

おわり

 

 

 

ニセ医学のブログを読んで思ったこと(長文)

こんな記事があった。元コメディカルとして返答ブログを書いてみたい。

decinormal.com

 

今から「ニセ医学」「代替医療」などについて書いていくので、冒頭で言葉の定義をしておきたい。

 

■ニセ医学…医学、医療を標榜しているが実際には効果がみられないもの。宗教的な呪術行為に近いもの。

■標準医療…医師免許保持者による医療行為。公立病院など、厚労省や自治体の認可を受けた施設での医療行為。保険治療をさす事もある。国によって診療報酬の点数が細かく定められている。

■周辺医療…いわゆるコメディカルリハビリテーション接骨院鍼灸院など。保険治療可能。準医療行為とも呼ぶ。病院の併合施設である場合もある。携わる人は国家資格保持者。

代替医療…古くから民間で発達してきた医療行為。医学的に立証された民間医療もある。この行為をクリニックで行う所もある。漢方薬代替医療とする場合もある。

(周辺医療と代替医療の垣根は曖昧である。戦後の保険制度の変更が背景にある。)

■医療類似行為…無免許、無資格による整体、リラクゼーションを目的としたマッサージなど。

 

 ※医療の世界は混沌としており、医師自身があきらかなニセ医学に傾倒し、患者に不利益を与える医療類似行為をしていることに留意が必要である。

 

 

 以前、民間療法についての記事を書いたことがある。私が考える、代替療法についての考えはほぼここで述べている。

nenesan0102.hatenablog.com

 

このブログで私が伝えたかったことは「最終的に大事なのは、患者側の判断力である」ということだ。

 

 冒頭のブログでも、筆者の宇樹さんがさまざまな治療法をためしたことが述べられているが「それは本当に医療行為として行われたのか?」ということがひっかかる。「ニセ医学」と言っているが、本当にそれは「ニセ医学」だったのか。

 

たとえば、アロママッサージは最近はあちこちで見かけるようになったが、「医療行為として」のアロママッサージをうたっているところはほぼないはずだ

街で見かけるようなアロマのお店のほとんどは、あくまでも「リラクゼーション」としての効果をうたっている。もし「頭痛が治る!」「生理痛が治る!」などの大々的な広告をしていたら、それは医師法違反にあたるから保健所に通報していい。

 だから最初から「医療」をうたっていないところへ行って医学的な効果を期待するのはちょっと違うのではないか。リラクゼーションとしての効果があれば、それでいいはずなのだ。

 

 私が気になったのは、ブログが標準医療VS代替医療の視点で書かれていることだ。代替医療や周辺医療をすべてニセ医学だと言いきってしまうのには個人的にはとても抵抗がある。

医療現場でも、最近では産院での産後のケアにアロママッサージを取り入れて、そのためのスタッフが常駐しているという産院が増えてきた。アロママッサージによるリラクゼーション効果が、産後の経産婦さんの精神的な緊張を解きほぐす効果が期待できたり、クリニック側も付加価値のプラスによって集客が期待できるという側面があるからである。

私個人の考えだが、より良い治療のためであれば代替医療を補完的に取り入れていくのはありだと思っている。患者に益があるのであれば、それはどんどん推進されてよい。

自分自身が臨床現場に居たときもそうだったが、とにかく患者が楽になることが、もっとも尊重されるべきことなのだ。こう考える医療従事者はたくさんいると思う。

 

何よりも患者側にはクリニックを選ぶ自由と権利がある。純粋な標準医療を受けたければ、そのような病院へ行けば良いのである。

宇樹さんの場合もそうだ。改めて受けた標準医療で効果が見られたからバッサリとそれまでの代替医療を無駄なものと切ってすてているが、そもそも標準医療に失望したからこそ代替医療へ行かざるをえなかったのではないか。

 

アメリカのように、標準医療が高額になりすぎてホメオパシーに頼るしかないとなるとこれはさすがに悲惨だが、幸いにしてまだ日本の保険機構はギリギリのラインでそのシステムを維持している。

だが、これからは社会保障費の削減と国の税収低下によって、今のような保険による標準医療が受けられなくなっていく可能性のほうが高い。

少し前のデータだが、公立病院のほとんどは赤字経営だ。さらに少子化によって自治体自体の税収が低下してこの赤字を自治体側で補填できなくなると、病院が消滅する自治体が出てくる。地域によっては病院で治療を受けたくても病院そのものがない。これは過疎化した日本の地方ですでに起きている。

医師の増員や力量のボトムアップ、高い水準の標準化はとても理想的だが、そこまで到達できない切実な現実がある。

これからの医療はAIが進出してくるだろう。少しでも人件費をおさえるために。医師の診療報酬は高いから、その半分以下の給料で働いているコメディカルは増員されるかもしれないが、診察そのものはAIによって行われるところが増えてくるだろう。

 

 

女性のアスペルガーと心身の不調の難しさ

先日、『女性のアスペルガー』(宮尾益知/講談社)という本を読んだ。女性の場合、アスペルガーに気づかず、症状が体への不調に出てしまう人が多くいるという。生理前の症状の悪化、生理の開始や二次成長期に体が耐えられずに症状に苦しみ始めることが多いという。

 

内容的には以下のブログにくわしい。

susumu-akashi.com

 

 宇樹さんご自身でも述べておられるが、発達障害の人で身体感覚過敏が強い場合、すべての体の不調を通常の人の何倍もの苦痛として受け取ってしまう。体の感受性がとても強いからだ。

だから、まず発達障害への治療を行うほうが本質的な解決に結びつくのだろうが、残念なことに発達障害とりわけアスペルガーの治療薬はないに等しい。発達障害はあまりにも不明なことが多すぎるのだ。

 臨床医をいくら増やしたところで、アスペルガーベースの難知性心身症をスパッと治すことはほとんどの医師にできないだろう。

難しいのは、本人が自分が発達障害だとまったく気づかない場合である。体に苦しみをかかえて、あちこちの病院をハシゴするドクターショッピング患者になってしまう。

 

女性の場合、社会性が発達していることも多く、一見発達障害とわからない人が多くいる。だから検査所見上は何も異常がない状態なのに、本人は強く不調を訴えてくるということになる。これは医療者側もかなり難しい局面に立たされることになる。検査での異常がないのだから、どうにも手の出しようがない。結局「ストレスですね」とか「自律神経失調症ですね」とかどこかで聞いたような事を言われて、そちら方面の薬が出るが、これがヒットして効くということはあまり多くない。

 

  

 フィードバック機構が欲しい

私自身、心身の不調がひどかったので、副腎ホルモンの検査に行ったりしたのだが、結局背景にあるのが自分のアスペルガーだった。だが、この結果をかつて行った病院へ知らせる機構がないのだ。個人的にハガキでも書こうかと思っているが、こうしたフィードバック機構がないことで、情報の共有や蓄積がうまく行っていない。このことが患者がドクターショッピング→医療費の増大へとつながってしまう。患者によるなにがしかのフィードバック機構が欲しいところだ。

 

 

 

おわり