けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

アスペ人のこだわり

先日、このような記事を書きました。

nenesan0102.hatenablog.com

すると、なんと!

猫P先生がこんなコメントをくださっていたではありませんか。

雑文と朝ごはん - けっこう毛だらけ猫愛だらけ

すごい!うちの近くに住んでらっしゃったら、私の休み中の食事を作るバイトでもしてほしかった。

2019/09/18 22:29

b.hatena.ne.jp

これはじつに嬉しかったです。

褒められて嬉しいし、ありがたい。

 

 ところで以前から書いていますが、私はアスペですから、このようなことを言われると舞い上がると同時に、「もし本当にそうなったらどうしよう」とかいうことも考えてしまいます。良いのか悪いのかわかりませんが、料理に対してのこだわりがものすごいのです。

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以前、知人が家に来たときに、たまたま作っておいた紅白なますがあったので、お裾分けしたことがありました。 知人は家へ帰ってそれを食べ、これまでになかった味に衝撃を受け、再現を試みたがどうにもできないと。それで私にメールでレシピを聞いてきたのですが…

実は、この紅白なます、私自身が好きなため、ものすごい改良を重ねて今の形に落ち着きました。

まず、こだわりポイントとしては、

・大根とにんじんはスライサーで切った方が口当たりがいい

・大根も人参も、繊維を断ち切るように切る(食べやすい)

・にんじんは、大根よりも硬いため、若干厚みを薄くする(0.2mmくらい)

・塩を振って水分を出すが、その後、なるべく塩気を抜く(塩味が残っているとくどい味になる)

・酢はかならず二種使用(味に深みが出る)

・酢を割る出汁は新しいもの

・こんぶは特定のメーカーの決めたものを使う(安こんぶを使うとくさみが出る)

 

スライサーは、「ベンリナー」という、なんともいえないネーミングのものを使っています。もう何年も使っていますが、このスライサーほどに便利なスライサーを私はほかに知りません。

www.benriner.co.jp

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 なますを作るときは替え刃の中刃を使っておりまして、サイズをはかると中刃は3ミリでしたので、3ミリ×厚み3ミリ〜2.5ミリくらいの大根を切っていることになります。人参はそれよりも若干、おそらく0.2ミリほど薄い感じになります。

このような0.1ミリ単位での調整ができるのがこのベンリナーの良いところで、これのおかげで大変助けられています。ここでアフィリエイト?でも貼ったら何人か買うのかしらん。

ちなみにこれ意外にも、めちゃくちゃ細切りのできるスライサーを別に持っています。なんでかというと、ベンリナーで微妙にできないサイズがあって(幅が2ミリ)、それで人参サラダとかの細切りするとやっぱりうまいんですよ。ほとんど使わないんですけどね。

それにしても野菜スライサーは、「ネギー」とか「キャベツー」とか、わかりやすいんですけどね。ネーミングがいい。

www.hotpepper.jp

 

 

そういえば昔、これらなますとか柚子大根とかの作り方を記事にしたことがありました。

nenesan0102.hatenablog.com

 この記事の中には書いていないんですけど、ゆず大根のレシピに「大根を拍子切りにし」とか書いてますけど、太さが1センチあると駄目なんです。7ミリ〜8ミリじゃないとだめなんですよ。味が違うんです。このブログにはそうは書いてないけど、だめなんです。だから自分がつくるときは7〜8ミリに統一して、さらに面取りをしています。自分でもあーこだわりが強いなぁと思います…。

 

 これは余談になるのですが、かつて自分が作ったゆず大根の中で最高においしかったものがあります。それは、古い知人であるAさんがくれた柚子で作ったものでした。

このAさんは市役所の公園課に勤めていたれっきとした公務員なのですが、植生の知識が豊富にあり、非常に頭が良くてさまざまなことに詳しい人でした。

  Aさんは自分が管理する公園の目立たないところに柚子の樹を植え、自分で柚子の樹を交配して実験、それがうまいこと採れたからあげる、と、これまでに見たことのない柚子を私にくれました。この種がもともと既存であるのか、完全にAさんの手によるものかはもう昔すぎてわからないのですが、非常に香り高い柚子で見た目もちょっと市販のものと違いつるっとしていて、こんな柚子があるのか!とびっくりしたものです。

これって職権乱用じゃないのwと思ったりもしますが、市の公園にどの樹を植えるかは市役所の人が決めることだし、豊富な経験と知識、業績があり、定年間際でそれなりの役職にいたAさんはやりたい放題していたと推測されます。ちなみにAさんはすでに公務員を定年退職しており公園の樹も証拠隠滅をはかっているので、もうこの柚子を私が手にいれることはできません (残念)。

 

  おっと。ちょっと話がズレてしまったのですが、自分がもし、どこかのおうちに家事代行しに行くことになったら、こだわりすぎておそらくつぶれてしまうでしょう。

自分はもともと発達障害で、処理速度はかなり遅いのです(IQ68)。だからモタモタとやっています(※モタモタやらないと脳に負荷がかかっておそろしいことになります)

 

 当たり前の話ですが、もし商売でやるのであれば、いかにして利益を出すかを優先せねばなりません。ところがこだわりが強すぎてそういうことがうまくできない。

紅白なますだって買ってきたのを皿に出せば早いし楽だし安いかもしれない。だけどどうもできない。

アスペルガーの人はいつも自分ルールを持っているのが常ですが、譲れない。どうにもそのへんがだめです。ただ、それを許せる人であれば大丈夫なのかも。

 

これまた余談になってしまうのですが、私はアスペルガーの人の困った特性のひとつに、「自分ルールを他人に押し付ける」というところがあると思っています。

逆に、自分ルールをかっこたるものとして持っていても、それを他人に押し付けたり、他人が同じように振る舞うことに腹を立てたりしない人もいます。こういう人畜無害系のアスペルガーの人もいます。

 

 ちょっとどうでもいい内容でしたが、嬉しかったので書いてみました。

ちなみに、出汁を自分で取るまではしていなくて、このような簡易タイプの出汁パックを使っています。これを冷やしたものをなますなどに使うと美味しいのです。

ご参考にどうぞ。

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【追記】

nkobi1121.hatenablog.com

   猫P先生がこのことを記事にしてくださいました。ありがとうございます。

今回なますとか柚子大根を例に出していますが、私は料理全般にこだわりがすごくて、そんなわけだから、たいていの料理はそこそこ美味しいです(自分で言うな)

しかしながらアスペルガーの人は、いわゆる情報の取捨選択ができません。だから私はいつもものすごい情報の量に押しつぶされそうになりながら生きています。

さらに言うとこだわりがあるのは料理だけではなく、他にもこだわりがすごくあるし、それが遂行できないとものすごい強いストレスとなります。

アスペ人は根がものすごく生真面目な人が多いですから、もし私が料理人をすることにでもなれば、最高の料理を提供するために自分の身をけずってまで極限まで頑張ってしまうような気がします。

  発達障害の人は体のあちこちに不具合をかかえている人も多いのですが、もしかしたらこういう形でストッパーがつけられているのかなと思うくらいには無理をしてまで、与えられた任務を果たそうとするのではないかなと思います。アスペルガーの人はとくに。そんなことを考えたりしました。

 

 

おわり

 

 

雑文と朝ごはん

  まず雑文から。

  8月に比べてかなり落ち着きを取り戻しました。(その節はご迷惑おかけしました。)

現在は薬も前と同じものに変え、精神的にも落ち着いています。

 

  8月は振り返ってみると3/4くらいは寝込んでいる感じで、さらに言うと闘病のために2〜3キロ痩せました。そのため自分としては、しばらくは何を食べても肥らないぞ、肥っても許容範囲だぞということで、自分で実験のようなものをしたりしていました。

結果… 私がもっとも肥りやすい食べ物はドーナッツでした。

天ぷらは好きでよく食べるんですけどね、そんなに肥らないんですね。

ドーナッツは、エルビスプレスリーが過食しちゃってすごいデブになっちゃって有名でしたけれども、肥りますねえ。でも個人個人で体質の差がありますから、私が、「糖質+脂質」が肥りやすいというタイプなだけで、ここは違う人もいると思います。

ただ、私が食べたのはドーナッツ2個程度で、昼間に食べました。2個でも「うーん、もうええか」という感じだったのに、2個であきらかに肥りましたから。ドーナッツってすげえ。

コメダ珈琲の「ジェリコ」という飲み物も飲んでみました。(こういうのはふだんは飲みません)

 

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出典 http://www.komeda.co.jp/menu/drink.html

 やー、すごいですね。カロリーがすごそう。私も飲みましたが夫が嬉しそうに飲んでました。ふだんこんなすごいものを飲みませんから、ちょっとスペシャルな体験でございました。美味しかったです。

 

 

  さて、タイトルにもある「朝ごはん」ですが、最近、夫の朝ごはんをかなり大幅に変えました。以前は夫は朝ごはんにはバナナ一本だけを食べて会社に行っていたのですが、その後、「フルグラ」というかなり甘みの強いシリアルを好んで食べるようになりました。このシリアルが甘い!かなり甘いので、私は夫とはまったく別の朝ごはんを食べるのが常でした。

夫が鬱になって気がついたのは夫が四六時中甘いものばかり食べていること。

体重も10キロ近く増え、以前とは体格が変わってしまいました。私が寝たあとにチョコレート一個まるごと食べてしまったりしているので、これはちょっと…という感じで。

糖分依存状態になっているのではないか?と考え、朝のシリアルをやめることにしました。(このあたりは医師とも話し合いの末に決めました)

参考リンク

www.daiwa-pharm.com

 

  余談ですが、私自身も糖依存におちいっていた時期があります。気持ち悪くて仕方なくて、自分自身で食生活を見直して朝食に摂っていたパンをすっぱり止め、低GI値の食品を朝に摂るように変えました。半年ほどで改善してきたように思います。

 

朝イチで砂糖やシロップが使われた甘々なものは食べないこと。

糖質が腸に到達する前に繊維質を先にとること。

 

白米摂ってるので厳密には糖質はあるんですが、GI値的にシリアルより良いだろうということで、朝ごはんの変更をはじめました。

 

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9月はじめくらい。肉じゃがの残り、オクラの和え物、とうもろこし、大根と油揚げのみそ汁。

 

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あじ焼き、枝豆、豆腐とねぎのみそ汁

 

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鶏つくね、切り干し煮、トマト、豆腐とみょうがのみそ汁、たくあん

(鶏つくねは自家製冷凍)

 

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きのこご飯、卵焼き、紅白なます、ほうれん草和え物、きんぴらごぼう、かぼちゃのいとこ煮(私のみ)

 

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しそ入り卵焼き、きんぴら、きのこご飯、わかめ豆腐みそ汁、しば漬け

 

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鶏肝煮、卵焼き、きゅうりの酢の物、豆腐なめこみそ汁、ぬか漬け

 

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ウインナー焼き、きんぴらごぼう、切り干し煮、たまごとニラのみそ汁、ぬか漬け

 

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ねぎ入り卵焼き、切り干し煮、きんぴら、白菜と油揚げのみそ汁、ぬか漬け

 

 

朝ごはんのポイントは、

・動物性タンパク質を必ず摂る(満足感のため)

・繊維質を入れる

・ぬか漬けをなるべく摂る(乳酸菌のため)

…というのをポイントにしています。

 

 で、やっぱり朝から作るのってしんどいじゃないですか。

なのでできるだけ冷凍食品を活用してます。

ポイントは、

・きんぴらは便利!

・冷凍野菜も使える(インゲンとか)

・ごはんも冷凍のもの(炊いたごはんを解凍したほうが電気代が安いらしい)

・酢の物(なます)などは2〜3日持つ

・みそ汁めんどくさい。もっと手を抜いてもいいかも

・卵豆腐、パックの煮豆、味のついた缶詰の魚なども常備しておくと便利かも


 時短のためにはやはり冷凍食品活用です。

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たとえばこれはきんぴら(人参が入っていないタイプ)を小分けにして冷凍する前の状態ですが、こんな感じで冷凍します。

きんぴらは冷凍してもあまり味が変わらないので良いです。カップ一個分で2人分の小皿ひとつになります。作ったものを冷凍しておけば新しく食材を買わなくて済むし。

人参入りのほか、牛肉と煮付けたものとか、いろいろなおかずが作れます。これらも冷凍保存可能。

 

 ■

 

 この朝ごはんに切り替えて、夫の糖依存が少しずつ変わってきました。モヤモヤした感じが少しずつ減りつつあります。

しかしながら、毎朝これを作っているのはかなり大変。

いかにして手抜きと冷凍化ができるか…

みそ汁の手抜きがしたい!

 

とりあえずあとしばらく模索してみます。

 

 

おわり

 

家相ってやっぱりあるのではないかという話

  前回のブログにはたくさんのコメントをいただきました。

ちょっと疲れてしまってきちんとお返事を返せておりません。

すみません。

 

ここ数日、とにかくネットから離れようとしていた感じです。

台風もあったし、疲れがすごいです。

 

私にはとくに何の被害もありませんでしたが、親しい友人が、台風で自宅に停めてあった車に大木が直撃し、その片付けの最中に足に植木用の鋏がブッスーし、5針縫うという大惨事になっていました。千葉の被害のほうがものすごいのですが、報道されないところでこうした小さな悲劇はたくさん起きてるんだなと思ったものです。

 

 

 ところで先日、わが実家のことをふと思い返してみたのですが、それについて今日は書いてみたいと思います。

中学1年生だったと思いますが、母親が新聞を見てからあわててどこかに電話をかけていました。それまで、我が家はずっと賃貸に住んでいたのですが、どうも母親がかなり良い条件の建築条件つき土地を見つけたらしい。私は今でもその新聞広告を鮮明に記憶しています。

 

 さて、あれよあれよと家が完成し、その年の冬くらいには入居することになりました。

ところが、あとでわかったのですが、この土地はもともとが沼地で、どうもそのような土地はよくないらしいのです。科学的根拠があるかどうかは私にはわかりません。

家を建てている最中を見に行った記憶があるのですが、大工さんがコツコツと仕事をしていました。職人の姿をカッコイイと思ったものです。この大工さんは私の家を建ててすぐ亡くなったと聞きました。白血病だったそうです。まだ34歳だったとかで、子供心に衝撃でした。しかしこれは家のせいなのかなんなのかわかりません。

 

  私の部屋は北側の一室だったのですが、この部屋で寝るようになってすぐ、強烈な金縛りに毎晩のように襲われるようになります。

ほぼ毎晩金縛りが起きて、私の上に黒くて大きな固まりとか、鎧武者のような人が落ちてきます。鎧が落ちてくるときはかならず大きな「ガシャーン!」という大きな音がします。ものすごい衝撃が腹に来て、とにかく重い苦しい痛い。

当然ながら私は不眠におちいり、金縛りに効くと言われるものがあればすべて試してみました。お守りを何個も身につけて寝たりしました。

ですが、ほぼすべて一時的な効果しかなく私はどんどん衰弱していきました。

結局、部屋を妹と取り替えてもらうことで金縛りは解決したのですが、今度は兄の奇行によって不眠がまたひどくなることになります。

 

 兄は、新しい家に引越してから奇行が目立つようになりました。夜中に雄叫びをあげ、さほど広くもないベランダを何度も何度も往復して夜中じゅう走り続けるようになりました。

これに私はまいってしまい、金縛りはおさまったのに、今度は兄のせいで眠れない状態になり、精神面ががたがたでした。

 この頃私は成長期の子供がよくかかる膝の病気にかかり、所属していた部活をしっかりできなくなってしまい、そこから部の女子たちからいじめられるようになります。膝の痛みはかなりひどく、歩くのも困難なくらいひどかったのですが、なんとかがんばって学校には通っていました。

  過去のブログにも書いたかなと思うのですが、兄の奇行がどんどん異常になっていきます。兄は統合失調症だったわけなんですが、あんまりにもひどかったので、近所で噂になるようになっていきました。

兄が母に暴力を振るうので、家の中がどんどん荒れていきました。新築の家なのに壁にぼこぼこ穴があいて、冷蔵庫なんかも兄が殴る蹴るをするので、あちこちがぼこぼこになっていました。

 母は兄からの暴力を避けるために家をよく留守にするようになりました。最初はすごく安い古旅館とかに泊まっていたのですが、行きつけが閉館してしまったため、家から離れた場所に2万くらいの安いアパートを借りました。こうして母は家から出て行ってしまいました。

  母のかわりに兄のターゲットになったのは私で、難癖をつけられて暴力をふるわれるようになりました。でも、私への暴力は母ほどにはひどくなかったため、あまりダメージは大きくなかった。それよりも近所の人とかが変な目つきでこちらを見ることのほうが苦しかった。

 私は夜のうちにおかずを何種類か作っておき、兄が寝ているすきを見計らって帰ってきた母の洗濯物を受け取り洗濯、その間に母がものすごいスピードでタッパーにおかずを詰め込み、ビニール袋にそれを突っ込み入れ、5分しないうちに家をまた飛び出していきます。

母が一瞬だけ帰ってきたことを知ると、兄が激怒して部屋をめちゃくちゃにして暴れるのですが、それを片付けるのは全部私の仕事でした。

 

 中学2年生のちょうど9月、私はひどい鬱になり、布団から起き上がれなくなりました。このまま7年間ほど私は引きこもるのですが、その話はここでは割愛します。

この時代は、今のように皆が簡単にメンタルクリニックにかかるような時代ではなく、兄がトウシツになったこともはじめはまったくわかりませんでした。(余談ですが、林先生のブログのようなものも当時は一切なかったので、とにかくまったくわからなかったのです)

私がひどい鬱状態になり頻繁に手首を自分で切り、そんなことを繰り返しているうちに妹もまた不登校になってしまいました。

 

こうして、

子供たちは全員ひきこもり、母は家から逃亡、夜中に得体の知れない叫び声が聞こえる家

という状態になってしまったのです。

その後も、兄がかなり本格的な自殺をはかったり、錯乱した妹が家の一階に油を撒いて火をつけようとしたり、あとから思っても子供たち全員が自殺をはかるってすごい話だなと思うのですが、子供全員のメンタルがおかしくなりました。 

 

 

 

  時は流れ、私が大学生になったころのことです。この頃、私は実家を出ていて、母とは時々電話で連絡を取り合っていたのですが、ある日母が「この電話は盗聴されている」と言いだしました。ああ、ついに母まで発病したか…そうか…そうよな、ストレスすごいしな…。

 

ところが実家へ行って母に会ってみると意外にもふつう。

だが、「盗聴されている」というのは変わりません。母はビニール袋に入ったコンセントを私の前に置いて、「これ、おかしくない?」と言いました。

あきらかに粗悪な、灰色のプラスチック製で、やけに巨大なコンセントが5〜6個、そのビニールには入っていました。そのうちの一個は、母によって解体されていた。

コンセントはどこをひっくり返してみても、どこにも製造の場所などの記号や印字がありません。日本製だったらJISマークがあるはずですが、どこにもない。

母によれば、このコンセント類は、家具に隠れたコンセントタップなどのありえない場所から発見されたとのこと。そんなところにこのようなコンセントをつけた記憶はまったくないし、そもそもどこで売っているのかすらわからないと。日本製ではないであろうコンセントを前に、私も母も、一体どうしてよいのか途方にくれました。

コンセントは、おそらく誰かが家に侵入して取り付けていったものだと思います。

田舎の家だから、平気で鍵をあけっぱなしにしていた父母が悪いわけなんですが、ちょっとどうにも不気味。

 結局、このコンセントの謎は今でも解明されていなくて、母がコンセントを解体したとき、得体のしれない機械が中に入っていたそうですが、私はその実物は見ていません。

 

 私の実家が新しく建ってから30年ほどになるわけですが、この間、幸いにして誰も死人は出なかったものの、なんというか、とにかく大変だったなと。

これ以外にも母が病気を患ったりとか、兄が脚立から落ちて腕を折ったり、父が心臓病になったりだとか実にいろいろなことがあるわけなんですが。

私はたまたま僧侶の知人が多いので、機会があったら除霊とか頼んでみようかなと思っています。

 

 私自身は、やっぱり家相はあるんじゃないかという思いです。信じない人は信じなくていいと思いますが、私はあると思います…。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

希死念慮とか

 今しがた、直筆での遺書を書いたところだ。

 

実は、わけあってとある薬を飲む事ができない状態になっていた。

みるみる悪くなる自分の精神状態に苦笑いしていた。

自分はやはり薬に助けられていたのだなと。

薬がなければ、満足に生活自体も送れない不具者なのだとまざまざと突きつけられた感じで。

 

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※これは私の知人がネットで書いていたことである。発達障害に加えて統合失調症を二次障害で発病した人の叫びである。

フォントが一緒なので勘違いしそうだけど、わたしが書いた文ではない。

だが、この文章には強く共感する。

 

以前、安楽死に反対の立場の人が、「安楽死は甘え。まばたきをするだけでも苦しいというレベルでないと認められない」というのを書いていたが、何もお前に認められる必要はねーよと思ったりもしたんだが、精神を病むと寝ているだけでもめちゃくちゃにきつい。苦しいから殺してくれ、くらいは思うし、体中のあちこちがずきずきしてすごく苦しい。だからこそ精神を病んでしまった人の自殺率は高いわけで、私は自殺が残酷な死に方だからこそ安楽死を認めてほしいと思っている。

 

なぜ、私が手書きの遺書を書き、またこうしてブログでもいろいろ書いているかというと、自分が偶発的に死んでしまう可能性があるからである。

私は今でも安楽に死ぬことを望んでいる。

なんとかこの苦しみから解放されたい。

 

強い希死念慮に抵抗できなくなって事故のように死ぬ可能性がある。

だからこの文章を残している。

 

anond.hatelabo.jp

最初、この匿名ダイアリーにコメントをつけていたのだけれど、結局消してしまった。

私は、自分の生活費をまともに稼げたことはほとんどない。能力が足りなさすぎてお金を稼ぐことができない。発達障害だというのが判明するのが遅かったから、一体なぜこんなにも自分だけがおかしいのかと不思議でならなかった。

生活費を自分で稼げるのは普通のことなのか?

なぜ自分だけが普通から逸脱しているのか?

 

私の場合は、やはり脳が弱い。

多くのタスクをこなすことがストレスになってしまう。

信じられないほど精神的に脆弱だ。

だからまわりにたくさんの迷惑をかけてきた。

 

今も夫によって支えられているから生きているだけの話で、自分一人の能力ではとても生きて行くことはできない。

なぜこのような体に生まれてしまったのか、何か仏罰なのだろうか。

 

 

私は遺書に、以下のことを書いた。

 ・私の灰を、京都の森にまいてほしい

 ・墓に入るつもりはない

 ・猫の毛、ひげと一緒に荼毘にしてほしい

 

他はあまり思いつかなかった。

戒名は自分ですでに考えてある。

 

anond.hatelabo.jp

こんな増田もあった。

この人は就労以降支援より、なにがしかの強い資格を取ったほうがいいと思う。

司法書士あたりはだめなのだろうか。

もしくはストレスをためない職場であればなんとかなりそう。

まだ若い。なんとか模索してほしいです。

 

 

おわり

発達障害者の恋愛(と結婚)

先日、こんな増田があった。

anond.hatelabo.jp

結論からいうと、増田がとりたてて心配しなくてもよいと思う。なぜなら人間関係は相性も大きく関わるからだ。

 この増田と、くだんのアスペルガーの人が、日常生活の中でどのようなやりとりを交わしているのかがわからないため、どうしてそこまで増田が恐怖をおぼえているのかが私にはわからなかった。私はアスペルガーといえども計算に強いタイプのアスペ人ではないから、この人のいう「人と物、数字の区別があいまい」みたいな特性を持っていない。だからこの人の恐怖感がちょっとしっかり伝わってこなかったし、アスペルガーサイコパスみはまた別かなとも思ったりした。

 

 私はよく、アスペルガーの人について、「アプリが入ってないんです」という説明をすることがある。スマホにアプリが入っていなければそのアプリの機能が使えないのと一緒で、定型の人がデフォルトで装備しているはずの機能をそなえていないのがアスペルガーである。だから、後から「こういう時はこう発言する」とか「こういう時はこうふるまう」というアプリを入れてやって、そのインストールが無事に成功すると、その人は機能不全から脱出する場合がある。(あくまでも成功した場合で、だめなこともある)

 

 私は発達障害者むけのコミュニティに入っているのだが、そこにいるとじつにいろいろな話が耳に入ってくる。

少し前に聞いて「ああ…」と思ったのだが、とある人が住宅ローン(団信つき)の審査を申し込んだが、発達障害を理由に審査が通らなかったという話があった。

実は住宅ローンの審査はそこまで厳しくはなくて8割くらいは審査が通る。

発達障害の診断を受けた人は、申告義務があって、障害があることを申告しなければならない。私がこのことを知ったのは、借金玉さんtwitterからだった。

twitterで「団信 発達障害」と検索すると、発達障害を理由に審査に通らなかった人のツイートがいくつかヒットする。

 私の入っている発達障害のコミュニティの男性のおうちでは、審査が通らなかったことにショックを受けた奥さんが「もう離婚だ」と言いだしてしまい、いまものすごくゴタゴタしている。離婚を言い渡された旦那さんのショックも大変なものだ。

この人もそうだし、増田で登場するアスペルガーの人もきちんと仕事をできているから、発達障害の中ではすごく軽度な部類だ。(発達障害だとまともに働けない人はゴロゴロいる)

 増田に出て来るアスペルガーの人も、すでに診断がおりているなら、団信の審査に通らない、保険に加入できない等のハンデキャップがあることを最初から認識しておく必要があるし、将来的に結婚を考えているのなら相手にもそれを伝えておかねばならないと思う。

 本当にたまたまなのだが、この話のあと、審査をする側の人と話をする機会があった。この人に、自分が発達障害だとは明かさずに「なんで発達障害だと審査に落ちるんですか?」と直球で聞いてみた。すると、発達障害の人は精神障害におちいるリスクが通常よりも高いこと、それによって働けなくなるリスクが通常よりも高いこと、また、過去の団信のデータなどから総合的に判断して審査結果を出すのだそうだ。

 団信はうごく金額がすごく大きい。下手すると数千万を保険会社のほうがかぶることになる。だから審査は厳しくても仕方がないだろう。

ここはすごく難しいところで、私自身はこれを差別だと感じるときもある。だが、アスペルガーの人の精神疾患や自殺リスクが高い事はまぎれもない事実で、これを覆すことは容易にはできない。

 

 

 私の知人に、こんな女性がいる。彼女はとある男性に猛烈にアタックされて結婚し、子供を二人もうけた。夫は正社員でごく普通に働いていて、なんの問題もなかった(はずだった)。ところが子供の様子がどうにもおかしい。検査をしてみたら二人とも発達障害であることがわかった。それを知った夫が「自分もそうかもしれない」と言いだして病院へ行った。結果、夫も発達障害だった。それを知った夫は「おれは発達障害だから」と言って突如仕事を辞めてしまった。夫が働かなくなって3年、ついに限界を感じた彼女は子供を連れて家を出た。夫は実家へ戻り、そこでニートになってしまった。

 

 実はこのような話はネット上にごろごろ転がっていて、この知人だけがとりたてて珍しいわけではない。「夫が発達障害だとわかっていたなら絶対に結婚しなかった」とか「せめて子供には遺伝してほしくなかった」「子供を作らなければよかった」という話はもうそこかしこにある話である。夫のことを強烈に憎んでいる人や、それを伝えなかった義父母を恨んでいる人も多い。

 いわゆるカサンドラ症候群になってしまって、妻自身も鬱になって働けないとか、そういったこともけっこう聞く。怨嗟ともいえるようなお話があちこちにあるので、苦しみの声とともに把握しておくとよい(かもしれない)

 

 だが、冒頭の話ではないが、アスペルガーの人にもそれぞれにベースとなる性格があるし、相性がよく、生活上にトラブルが起きなければ、案外仲良く夫婦生活をいとなんだりもする。男女ともにありうるのだが、伴侶を得た事で心がものすごく落ち着いて、別人のようになる人もいる。

 

 これは私が思うだけの話なのだが、アスペルガーの人の何が嫌われてしまうかというと、自分の痛みにはすごく敏感なのに、相手の痛みにすさまじく鈍感なのだ。だから「自己中」とよく言われる。アスペルガーの人が他者の心を傷つけて気持ちを踏みにじった話はもうはいて捨てるほどある。ここをなんとかできないかと画策しているのが、浜松医科大などでとりくんでいるオキシトシンの治療であるが、効果のほどはまだはっきりしない。

 アスペルガーそのものを治す薬は現在のところ存在しない。このあたりもしっかりと相手に伝え、理解を得る必要がある。男性のほうが二次障害のために薬を服用している場合、それが胎児に影響を及ぼすかどうかもしっかりと確かめたほうがよい。

 

 同時期にこんな増田もあった。

anond.hatelabo.jp

 以前、どこかで、私のことを「反出生主義だから好き」と言う人がいたのだけれど、私は反出生主義ではない。優生思想に近い思想を持っている。これは自分が障害者に生まれたことの反動である。

 

 私が子供のころはまだ古い感覚がそこかしこに残っていたから、「きれいな子が欲しければ便所掃除をしろ」とか「色の白い女の子が欲しければりんごを食べろ」とかいう言い伝えがあった。科学的根拠は何もない。だが、こういったことを言う年配の人はとくに珍しくもなんでもなかった。

 女性が妊娠したときに「障害児が生まれるといいね」とか「頭の弱い子だといいね」という人はまずいない。赤ちゃんを妊娠したら、なるべくなら健康な子、障害のない五体満足な子を願うのは当たり前の話だ。はじめから「私は障害児が欲しい!」と願う人はおそらくいない。

 無事に生まれたら生まれたで、今度はできるだけ育てやすい子がいいし、いつも笑顔で元気で明るくてよく眠る子で病気やアレルギーがない方が助かるし、できればほっといても勉強ができてほしいし、良いルックスに育ってほしいし、いずれは良い職業について欲しいと願う。

そして、道をはずすことなく良い人生を送り、またさらにその子孫を残して行ってほしいと願う。これはごく当たり前の感覚だし、そうやって人間は代々子孫の反映を祈ってきた種族なわけである。

 優生思想はじつはこの社会に蔓延している。このような社会では容姿端麗で眉目秀麗、心身が強靭で病気をせず、プロポーションの良い個体が圧倒的に有利である。この逆の人だと苦渋を強いられる。

 

 発達障害者の場合、高確率で子供に発達障害が遺伝する。確率は4〜8割とか言われているが、これはガチャそのもので、生まれてみないとわからない。

だから、発達障害者が子供を望む場合、遺伝しない可能性に賭けるよりは「遺伝したときにどうするか」というのを先回りして動いたほうが現実的で賢明である。

また、このことをしっかりとパートナーと話し合う必要がある。

 発達障害の当事者が、遺伝のことを知識がなかったのかなんなのか知らないが、子供を作って、あ、また発達障害だった、でももうしんどい、この子もう育てられません、私障害だし…、というのはさすがに無責任すぎると思う。だが実際にはこういう人もいるので、何とも言えないのが現実である。

 

 以前、「障害者だけど子供が欲しい」という増田があって、それに対して私が「遺伝のことをどう考えてるの」というコメントをつけたら、「こんなことを言う人だなんてショック…」みたいなことを言われてしまったのだが、発達障害者が子供をもうける場合は、遺伝についてしっかりと考え、金銭的、肉体的、環境的に余裕があるのかをしっかりと冷静に考える必要があると思う。ここはきれいごとぬきに考えないといけないと思う。子供自身の将来とか人生のためにも。

 

 これはまた発達障害のコミュニティで聞いた話だが、もう数十年前の話。発達障害という概念すらない時代だ。とにかく仕事が続かない、どこへ行ってもクビになってしまう息子、富裕層の親がビルを3、4棟買って与え、表向きはビルの管理の仕事をしているという人の話を聞いた事がある。お金は潤沢にあるから、この息子は好きなだけ外車を乗り回し、週の半分くらい沖縄に遊びに行ったりして、ようするに遊び暮らしていた。仕事にまつわるストレスがないから精神的に病むこともなかった。

 発達障害の人の人生は大きくお金で左右される。生まれ落ちた家がそれなりにお金があって、適切な療育を受ける機会があれば、かなり社会適応できる可能性があがる。

そういった機会に恵まれなかったり、生まれた家が極貧だったりするとお金のために軽犯罪をせざるをえなくなったり、いま話題になっているケーキを3等分できない子という状態になってしまったりする。

 「仕事ができないからビルを親に買ってもらった」というのはあんまりにもレアケースだが、ある程度お金がないと地獄を見るのはあきらかで、もし子供を持ちたいと思うのであれば財政状況はかなりシビアに考えておいたほうがいいと思う。子供のために不動産投資をするとか、もし社会適応できないレベルに障害が重度だった場合、どうするのかというのは真剣に考えておかねばならないと個人的には思う。

 

 

 これはちょっと余談になるのだが、発達障害の人で、寂しさを強く感じたり、不安を強く感じたりする人は多い。それ自体が一種の特性なのだが、他人に強く依存するタイプの発達障害の人もいて、こういう人は他人を強く求めるから、猛プッシュのすえに結婚したりもするのだけれど、依存をする方は心地いいのだが、依存される方はたまったもんではない。このバランスの均衡が崩れ、関係が破綻することがある。

 発達障害の人はもともと、他者との心理的距離感がうまくとれない人が多い。この人は味方だと認識したとたんに相手に甘えはじめてしまうことも多い。

 だが、もともとどのくらいの距離感が適切なのかがうまくわからないから、それこそ夫婦なんかになると、どこまで依存してよいのかはかれなくなってしまって、それこそ極端にパートナーにべったりと依存したり、これもまた破綻の原因のひとつであろう。

 

 

 

……とか、いろいろ書いてきたけど、あくまで増田は第三者なのだから、アスペルガーの人の人生だし、かりにそのお相手の人がその人と結婚したとしても、大人になった人が自分で結婚を決めてるのだから、それで良いのではないでしょうか。

 

 

 

おわり

 

 

 

戒名についてのトリビア(長文)

はじめに

 少し前、ネット上の書き込みで若い女の子が「祖父が亡くなって戒名をつけてもらっただけで30万も取られた!」と激怒しているところを見かけた。いやいや、それは寺院にとっての収入なのだからそこは仕方がないよと説明したくなったが、激怒していて話にならないし、そもそも仏教寺院の経営なんかには興味がないだろうから放置しておいた。このままあの人は怒り続けるのだろうか。

だが戒名について私自身が説明できるのか?と言われると、なんとも言いがたい。そこで調べてみることにしたのがこのブログである。

 

戒名について調べて行くうちに、私の興味は『差別戒名』と呼ばれるものに移って行った。「差別戒名」は大まかに二つに分けられるのだが、一つは「被差別部落民につけられた戒名」、もう一つは「遊廓で亡くなった遊女たちにつけられた戒名」のことである。これらの戒名には差別的な意図があり、あえてそのような戒名をつけることがかつての日本で全国的に行われていた。このブログではこのお題を中心に取り上げる。

 

戒名とはなにか

 戒名関連の本、仏教関連の本を読んでいるとあちこちに出て来るのだが、ブッダが開祖である原始仏教と、現代の日本で幅広く知られている仏教はまったくの別物である。

仏教は中国を経由して日本に渡ってきたため、本来の姿とは大きく宗教として変わってしまったが、それはこの記事のお題ではないためここでは割愛する。

もともと、ブッダの率いた集団は修行僧の団体であって、出家して世俗いっさいを捨てた修行者たちの集団を「サンガ」(僧伽)といった。修行者たちは髪の毛を剃り、「サモン」(沙門)とか「シャクシ」(釈氏)と称したようだが、これは職業名のようなもので戒名ではない。ブッダが弟子に「仏名」を与えるというのがあるが、これもまた戒名ではない。原始仏教において「戒名」は存在しない。というのは、戒名の概念そのものは古代中国にあった風習を取り入れたものだからである。

古代中国では、実名の他に「字(あざな)」を持つという風習があった。戒名の由来はここにルーツがある。少し長くなるが、本の一文を引用する。

法名は俗名でいえば、字(あざな)に対する諱(いみな)に相当する。諱は忌名の意で、生者には別名を字というが死者には諱という。

礼記』に『男子二十冠して字す』とあるように丁年に達すると実名の他に字を持つのが中国の習であった。これが転じて、諱は死者の諡(おくりな)、法名となり、僧侶の場合には、法諱(ほうき)と称し、字は転じて道号となった経緯をふんでいる。

古代の社会ではその人の名は本人に等しいものとされ、本名を呼ばれることは危険だとすら考えられていた。諱が登場したのも、そうした古代的な感覚に基づくものだといえよう。

島田裕巳『戒名』/法蔵館/1991 より

※『礼記』(らいき)は、西暦51年成立の書物。礼記 - Wikipedia

 

このようにして古代中国の風習を取り入れて少しずつ変化していったのが「戒名」である。余談になるが、空海(774〜835) は、みずからのことを「沙門空海(さもんくうかい)」と名乗っていた。釈迦の弟子であるという意味である。空海は没後に『弘法大師』の名を醍醐天皇から贈られているが、これも「諱号」であって戒名ではない。

 

日本初の授戒

 日本で初めて戒名を授戒したのは奈良時代聖武天皇(701〜756)だと言われている。聖武天皇天平勝宝6年(754)、東大寺大仏殿前において『勝満』という戒名を授戒した。このとき、后である光明皇后と側室である中宮も同時に授戒したと言われている。この時代の戒名は二文字であるのが通例で、時代を経るにつれて戒名が長くなっていく。

 ただ日本への仏教伝来は538年ごろと言われているから、これ以前にも戒名を授戒した人はいて、渡来人の仏師の娘の「シマ」という女性が、高麗からの帰化僧である恵便に出家し、『善信尼』という戒名を受けたという記録が残っている(584年ごろ)。そのほか、これまた渡来人の娘である女性が『恵善』という戒名を受戒したという記録が残っているが、いかんせん飛鳥時代よりも前の話で、両者がいずれも渡来人であることから、日本人が公式に…となるとやはり聖武天皇の授戒が史上初ということになる。

 

日本における戒名の広がり

 平安時代中期に絶大なる権力をほこった藤原道長(966〜1028)の戒名は『行覚』という。道長は寛仁3年(1019年)、53歳の時に出家している。『行覚』の戒名はこのとき授けられたものだ。この当時の平安貴族が競い合ったように寺院を寄進したのと同様に、道長もまた巨大寺院の造営に取り組んだ。道長の造営した無量寿院は、現在は現存しないが小さな碑が残っている(京都市上京区荒神口通寺町東入ル ※京都御所のすぐ東側)。

当時の戒名は、仏教に対して多大なる功績があったもののみに対象がしぼられていた。この時代の皇族貴族たちはほぼ皆して仏教の熱烈な信者であったから、戒名はポツポツと増えていく。しかしまだ戒名は大衆のものではない。ごく限られた武将や貴族、仏教に多大な貢献をしうる超富裕層に限られたものだった。寺社仏閣を寄進するのは並大抵の財力ではできない。現在の費用で言うならば数億〜数十億レベルの寄進をせねば無理だった。いわば完全に特権階級であることを示すものが戒名だったともいえる。

 

 鎌倉時代になると戒名がじょじょに長くなっていく。例えば、鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝(1147〜1199)の戒名は『武皇嘯原大禅門』(ぶこうしょうげんだいぜんもん)という。一方で二文字戒名説があり、『嘯原』『嘯厚』『嘯源』などが挙げられている。そのためこの時代には、二文字戒名とそうではない戒名とが入り交じっていた可能性がある。

 さらに時代が下って室町幕府征夷大将軍足利尊氏(1305〜1358)の戒名は『等持院殿仁山妙義大居士』(とうじいんでん じんざんみょうぎだいこじ)といい、鎌倉時代に比べるとぐんと長くなる。尊氏はもともとは二文字戒名『仁山』(じんざん)を持っていたが、長い戒名は没後に名付けられたもののようだ。『院殿』がついた戒名は足利尊氏が最初で、これは天皇皇位をしりぞいたのちに『〜院』を名乗る事が多かったことに配慮したためだったが、尊氏後の大名などが気に入ってこの『院殿』のつく戒名を多く採用するようになった。

 織田信長(1534〜1582)の戒名は『惣見院殿贈大相国一品泰嚴尊義』(そうけんいんでん ぞうだいしょうこく いっぽんたいがんそんぎ)。(長い)

 江戸幕府初の征夷大将軍である徳川家康(1543〜1616)の戒名もやたらと長く、『安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士』(あんこくいんでん とくれんしゃすうよ どうわだいこじ) もしくは、『安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士一品大相国』(あんこくいんでん とくれんしゃ すうよどうわだいこじ いっぽんだいしょうこく)という。(長すぎ)

この時代になると、戒名の長さが格の高さを表すということがあったようなのだが、一体いつ頃からそのような価値観が現れてきたのか、何がきっかけだったのかよくわからない。いずれにしろ家康公がやたらと長い戒名であるように、偉い人は戒名が長いのがこの時代のトレンド。この頃になると 『〜院』よりも『〜院殿』の方が格式が上だという認識が広まっていった。信長や家康公の戒名に見られる『大相国』というのは唐における宰相を指し、『一品』というのは最高級という意味を持つ。ようするに最高に位が高いこの国で一番えらい人という意味である。

 

「寺請制度」のはじまり

 江戸時代初期、寛永12年(1635)になると、「寺社奉行」の設置がはじまり、この制度によって寺請制度が全国に広まる。江戸期の人々はそれ以前の時代に比べて生活も安定し、寺院そのものが全国に幅広く広がりをみせ、檀家制度が定着し、戒名が一般大衆のあいだにも普及しはじめた。続く寛永17年(1640)の「宗門改役」によって、人々は寺の管理する「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)に記載された。これは現在の戸籍制度の原型ともいえるもので、人民の生死、結婚、離縁等が記録された。死者は同じく寺が管理する「過去帳」に、戒名や俗名、死没年月日とともに記録されることになった。寺請制度は明治4年(1871)10月に廃止されるまで、じつに236年の長きにわたって続いた制度であった。

 江戸時代後期の文化元年(1804)には、戒名の禁止事項として、「百姓、町民の戒名に、院号、居士、大姉をもちいてはならない」という布告が幕府によってなされている。これは、これらの戒名が過発行状態にあり、上位の戒名をつけることによって多額の報酬を得ていた僧侶がいたことが推測される。できるだけ立派な戒名が欲しいというのは人の心情としてあたりまえのことだ。江戸期の書物には、戒名に尊卑をつけることへの疑問や、戒名のランクによって遺族に多額のお布施をねだる僧侶を批難した文書などが残っている。冒頭の女の子が持ったような憤懣が、すでに江戸期にはありふれたものであったことが伺える。

こうして院号や居士、大姉号は一部の武家や公家の独占となったが、町民でもこれらの戒名を得た人々もいた。江戸期以前と同じく、仏教に対して大きな功績のあった人、多額の寄進をした人、大きな活躍をした人、大名の推薦を受けられた人などである。

江戸期にその名を轟かせた浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門(1653〜1725)の戒名は、『阿耨院穆矣日一具足居士』(あどういん ぼくいにちぐそくこじ)、『南総里見八犬伝』で知られる滝沢馬琴曲亭馬琴)の戒名は『著作堂隠誉簑笠居士』(ちょさくどうおんよさりゅうこじ)、蘭学者で発明家の平賀源内の戒名は『智見霊雄居士』(ちけんれいゆうこじ)。江戸の町人文化の発展をにない、後世まで名の知れ渡ったこの人たちが「居士」の称号を得ているのは、その活躍もさることながら、支配階級である武家の出自だったという理由があった。

 

差別戒名の歴史

 寺請制度の背景にはキリシタン弾圧がある。寺請制度は、人々を檀家に縛り付けることによって管理し監視下においたシステムであったが、この寺請制度以前から存在していた被差別階級の人たちをこの制度に組み入れたことから、『差別戒名』というきわめて悲しいものを生み出すこととなった。

 差別戒名というのは、被差別部落の人々に対して、『畜男』『僕男』『禅革門』『僕女』『革女』といった特定の戒名をつけ、一目でその墓が被差別部落の出身者だとわかるようにしたという悪意ある差別の一例である。なかには一見わからないが漢字を分解してつけたという陰湿な例もあった。これらの差別戒名は、天文8年(1539)に書かれた『貞観政要格式目』や、寛永3年(1626)に書かれた『無縁無慈悲集』をマニュアルとしてつけられていた。あまねく人々を救済するはずの仏教が、差別を生み出す側にまわってしまったのだ。これは今でも日本の仏教界における大きな暗部のひとつであろう。

『差別戒名の歴史』という本によれば、江戸時代の後期になると金によって身分を買うことが当たり前のようにまかり通るようになっていたという。こうした中で『院号』を金で買ったり、差別戒名をつけないことを条件に高額な金銭を要求する僧のことなどが記録に残っている。この頃の仏教界の腐敗はかなりひどいもので、あちこちの書物にそのさまが書かれている。

 明治4年(1871)、8月28日、大政官によって「穢多・非人」という身分を廃するという布告が公布された(大政官布告第六十一号)。これによって表向き差別戒名の数は激減するが、それはあくまでも表向きの話で、一部地域においては公布後も差別戒名がもちいられ続けた。

 1980年代にこんな話があった。前出の島田氏の本から引用しよう。

差別戒名が問題となってからの話である。

N県I市で字の読めない被差別部落のおばあちゃんに、先祖の墓石に刻まれた名前を前にして、みんなが「これは差別戒名だ」と教えた。ところがおばあちゃんは、「そんなことはない、これはうちのお寺の和尚さんがつけてくれた戒名だから、そんなことはない」と言って、なかなか信用してくれなかった。逆に皆にむかって「あんたらは、わしが字が読めんからといって馬鹿にしているんだろう、噓をつくな!」と言って怒りだしてしまった。

しかし、そのうちに多くの人たちから、そのいわれを説明されると、今度は仏教と寺の坊さんに腹を立て、その怒りのあまり、永年にわたって花を供え、線香を供えて拝み続けてきた先祖代々の墓を土の中に埋めてしまったのである。

『宗教と部落問題』部落解放研究所/1982 より

 このおばあちゃんを襲った失望感はどれほどのものであったろうか。戒名は永遠に残り、墓石には被差別民であったことが刻まれ、死してなお差別され続ける。差別戒名とはそれほどひどいものであった。

またこれも昭和後期のことであるが、被差別部落出身者の人に対して、「差別戒名をつけないかわりに追位をするので300万よこせ」と僧侶が迫ったという話も残っている。これはほとんど恫喝である。遺族側は悔しさに涙を流しながら借金をしてでも戒名代を払うこととなる。このように昭和後期に入っても全国で差別戒名は依然としてつけられ続けていた。

 現在、この差別戒名の見直しが進んでおり、またこのおばあちゃんのように先祖代々の墓石を土に埋めてしまう人や墓石を破壊する人などがいて、差別戒名を残す墓石そのものが減っている。差別はあってはならないものだが、差別があったことを残すこと自体は重要で、ここは難しいところである。

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差別戒名の刻まれた墓石。安政二年(1855)のもの。『革女』などの文字が見える。『ト』の文字にはなにか意味があるわけではなく、ただこの人が「穢多」であることをしめす記号のための文字である。

小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 口絵写真より

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明治初期の寺院の過去帳。大政官布告後の日付だが、過去帳にははっきりと「新平民 元穢多」の文字が見える。戒名そのものは『禅定門』で、これ自体は差別戒名とは言えないが、このような形ではっきりと人々が差別されていた。

小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 口絵写真より

 

遊女たちの戒名

私が遊女の戒名に興味を持ったのは、どこかの本で『売女』という戒名が存在していたというのを目にしたからである。こんなことがありうるのだろうか?と目を疑った。

 

 『生まれては苦界、死しては浄閑寺

 これは江戸期に生まれた言葉で、吉原の遊女たちの生き地獄のさまを表したものである。男たちの性処理道具としての過酷な運命を背負った遊女たちは、その平均寿命はわずか22歳ほどで、ほとんどが年季が明ける前に死んだ。生き残れるのはごくわずかな一握りの遊女だけで、彼女たちもまた、年季があけても行く場所はなく、郭に「遣手婆」として残ったりすることが多かった。というのは、遊女たちは遊郭に売られるさいに「宗門人別改帳」からその名が抹消されたからである。遊女たちは表向き、郭の店へ「子」として入るという養子縁組のような形をとった。投込寺のひとつである成覚寺には、「子供合葬碑」という石碑があるが、これは幼児という意味ではなく「“くるわの子”とされた遊女」の供養のための石碑である。このような形で遊女たちは故郷を捨てさせられ、郭の中で一生を終える覚悟を持たねばならなかった。

 吉原遊郭の歴史をざっとたどると、おおもとの発祥は天正時代(1573〜1593)にさかのぼる。天正15年(1590)には、「岡場所」と呼ばれる違法売春地帯があり、これをときの幕府が把握していた。時代が下り江戸時代初期の元和3年(1617)、「葭原遊郭」を正式に公許した。これが吉原遊廓のはじまりである。

 享和8年(1723)頃の記録では、吉原遊郭にはおよそ8161人の遊女および861人の禿(少女)がいたとされるが、おそらくこの数字は偽申告で、冥加金(税金)を浮かすための過少申告であろうと推測されている。この頃、江戸は世界有数の大規模都市で、江戸全体の人口は56万人、これに武士をくわえると85万人ほどとも言われていた。(武士の数があいまいなのは、武士の人数は軍事機密とされたため、正確な記録を幕府が公表していないからである)

 浄閑寺をはじめとする「投込寺」は、吉原遊郭のまわりに3ヶ所ほどあったと言われている。遊女が亡くなると、裸同然の遺体を簀巻きにされ、人気のない夜中に寺に持ち込まれ、文字通り大きく地面に掘った穴に投げ込まれた。寺ではこの遺体を1朱とか2朱とかの料金で処理を引き受け、過去帳に戒名とともに書き込み、形ばかりの供養をした。江戸時代の貨幣価値を正確に割り出すのは難しいのだが、1朱は一両の1/4〜1/16くらいの価値だそうだから、今の価格に直すと1万〜5万円くらいだろうか。浄閑寺には、寛保3年(1743)から安政の大地震(1855)までにじつに2万5000体を超える遊女の遺体が運び込まれたという。遊女たちの遺骨はまだ現存していて、浄閑寺に建てられた供養塔の中に安置されている。 

jyokanji.com

 

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 出典 https://skyhigh.muragon.com/entry/85.html

 この写真は、西山松之助という人の『くるわ』という本に掲載された浄閑寺過去帳である。こうして見ると遊女の戒名は 『信女』が多い。とある説で、遊女の戒名に『売女』というのがあったという話があるが、今回、自分のちから不足かそういった資料を見つけることができなかった。遊女は売春をするのがなりわいだから、たしかに売女といえば売女なのだが、この戒名はあんまりである。一説に、遊郭の規則を破ったものに対しての懲罰的戒名だったという説があるのだが、こちらに関してもちょっと資料が手に入らなかったため、遊女の戒名『売女』説は、ここでは一時保留にしておきたい。

 江戸時代はかっこたる階級社会であるが、郭の中もまた同様であった。遊女は太夫を筆頭としてランク付けされ、一晩の料金も太夫が圧倒的に高かった。だから、吉原遊郭の中でも著名な遊女にはしっかりとした戒名がつけられていたりする。当時の遊女は今でいう芸能人のような位置づけで、有名店の太夫ともなると顧客が大名だったりしたから、一般庶民からは雲の上のような存在の遊女もいた。 

 名妓として名を馳せた遊女「万治高尾」は、顧客に仙台藩伊達綱宗(1640〜1711)をもち、のちに身請けされた遊女である。高尾には墓がいくつもあって戒名もまた複数あるのだが、『転誉妙身信女』『浄林院法讃日晴大姉』などがある。(大姉がついているところを見ると、これは伊達公によるはからいであろうか)

 浄瑠璃の作品、『明鳥夢泡雪』(あけがらすゆめのあわゆき)は、遊女「浦里(うらさと)」の情死事件を題材にとったものだが、この遊女浦里の戒名は『心浄妙貞信女』で、それほど悪いイメージではない。これは、人々がこの情死事件に強い同情をよせたという市民感情を汲み取ったという可能性がある。そのほか、遊女の戒名には『出入深入信女』とか『一場笑拍信女』『展開両手信女』といった珍妙な戒名が過去帳に残されている。

 

遊女たちの情死と戒名

 江戸時代、色恋沙汰による心中は大変な罪だった。八代将軍徳川吉宗(1716〜1745)の時代、享保8年(1723)に布告された「情死取締布令」によれば、「二人ともが死んだ場合、亡骸を捨て」と、遺骸を弔うことを禁じている。だが、これを忠実に守ると、寺の方は困ってしまう。過去帳に遺体の本名や戒名を書き込まねばならないからである。寺としてはできるだけ弔ってやりたい。この葛藤から『四文字戒名』がうまれた。

 享保年間の記録によれば、年間の情死事件は平均して約19件ほどがあり、女性の約半数が遊女によるものだった。ただ、この記録には武士と遊女の情死は含まれていないため、武士と遊女による情死を含めると情死の実数はもっと多かった。武士と遊女による心中が、江戸中で大ヒットしていた近松心中ものの影響によるものなのか、近松が現実の情死事件に案を得たのか、これはどちらが卵かはわからないが、ともかくこの時代において、武士と遊女の心中事件はけして珍しいものではなかった。

 天明3年(1783)におきた吉原の遊女「綾衣(あやぎぬ)」と、武士藤枝外記による「箕輪心中」は、のちに岡本綺堂によって小説にもなったが、武家の藤枝家は4000〜4500石の禄高があり、これは武家としてもかなりのものだが、それでも遊女を身請けすることは叶わなかった。そのくらい高級遊女の身代は莫大な金額だった。人々はこの心中事件を、「君と寝ようか五千石とろか、なんの五千石、君と寝よ」と歌にまでした。

(※当時の一石は、約一両に等しかったと言われている。一両を今の金額に直すと約10〜20万円ほどなので、藤枝家には現在の価格にして約4〜9億もの財産があったことになる。)

 

 情死した遊女に対しては、『意実浄貞』とか、『心浄妙貞』といった四文字の戒名が与えられた。通常は『貞女』『信女』のため、一目見てそれとわかるようにされている。戒名を一種の罰としながらも、弔いの名をつけるという僧侶の苦肉の策であった。

 明治期には「夕月」という名の遊女がこれまた情死している。このとき彼女に与えられた戒名は『秋月普照信女』であった。というのは、明治期になると法律がかわり、いかに遊女といえども医師の死亡診断書等が必要になったからで、江戸時代のような、遺骸をそのまま穴に放り込むといった乱暴なやりかたは許されなかった。 遊女夕月の墓は今も浄閑寺にある。

 日本の遊郭公娼制度は、昭和31年(1956)、たった3分の審議によってその終焉をむかえた。元和3年(1617)から数えればじつに363年の吉原の歴史はここに幕をおろすことになったのであった。 (なお、このときの法案立法者は衆議院議員の神近市子(1888〜1981)、アナーキスト大杉栄(1885〜1923)の愛人であり、日影茶屋事件で彼を刺して重傷を負わせた女性である。)

  

現代の戒名、何が問題なのか。 

 

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島田裕巳『戒名』法蔵館 より。昭和後期の戒名の一覧表
 

 昭和59年(1984)年、朝日新聞社が全国の寺院に対して戒名料の調査をした。そのデータをまとめたものがこの一覧表である。

 いま、現代のわたしたちが、戒名について怪訝な思いをいだくとすれば、冒頭の女の子ではないが「相場がわからない」「なぜ名前だけで何十万もとられるのかがわからない」ということになる。私自身の祖父母はそれぞれに『大居士』『大姉』の戒名を持っていて、江戸時代には禁止されていたことを思えば、居士も大姉もえらい安くなったもんだなとすら思う。

 これは宗派によるのだが、『〜〜院』の部分、この部分を本山が担当していて、院号を発行するたびに本山に上納金をおさめなければならないという宗派もある。だから檀家のおさめた戒名料のうち、半分くらいを本山がかすめとっていく。檀家や遺族側は、戒名料の高さに憤慨したりもするが、僧侶が全部ふところに隠してると思うのはこれは大きな間違いである。

 そもそも宗教なのだからそれなりのお金がかかるのはどうしようもないことである。ここに憤慨するのであれば自分で戒名をつければよい。自分自身の戒名をつけることを推奨している宗派もある。戒名のつけかたには様々な細則があって、宗派ごとに細かなしきたりがあるが、勉強して自分自身でつけて納得するのがいちばん理にかなっている…と、個人的には思ったりもする。

 

雑談、猫に関する戒名

 私は自他ともに認める猫好きであるから、せっかくなので猫に関するトリビアも集めてみた。猫に関する戒名で、もっとも古いものは、室町時代、奈良の興福寺塔頭である多門院の僧であった長実房英俊(1518〜1596)という人が名付けたものである。この人は『多門院日記』という日記を長々とつけており、その中の元亀3年(1572)8月5日の条に、

一、猫死におわんぬ、不便々々、妙雲禅尼と号す、夢々しい

 という記述が登場し、『妙雲禅尼』というのが猫の戒名であることがわかる。尼とあることからメス猫だったのだろう。「夢々しい」というのは、まるで信じられないといった意味で、愛する猫を失った心情が伝わってくる。

 この『多門院日記』の記述が発見されるまでは、猫の初戒名はもう少し時代が下ったもので、松尾芭蕉の弟子である各務支考(1665〜1731)という人が亡くなった猫につけた『釈自圓』という戒名がもっとも古いとされていた。

 江戸時代後期〜明治時代にかけて活躍した、河竹黙阿弥(1816〜1893)という歌舞伎狂言作者がいるが、この家は大変な動物好きであった。黙阿弥には一人娘がいて、この人を糸女といった。糸女もまた大変な猫好きで、源通寺(※東本願寺塔頭、移転のち、東京都中野区に現存)に頼んで、猫の戒名をつけてもらった。『開花得道女猫 (俗名 ジョコ)』という。咲き乱れる花の道を進む猫のイメージだ。糸女は猫のための法要を寺にわざわざ頼んだりもしていたらしい。

その他、安政時代(1854〜1860)に、『駁斑猫実』という戒名の刻まれた墓石が残っている。これは読み方は「ぶちぶちねこまめ」と読むようだ。猫の俗名は実助(まめすけ)と言った。

 さて、日本一有名な猫の物語といえば『吾輩は猫である』であるが、作者の夏目漱石(1867〜1916)の戒名は、『文献院古道漱石居士』(ぶんけんいん こどうそうせきこじ)という。かの有名な小説の書き出しはこうである。 

吾輩は猫である。名前はまだない。

 実は、夏目家で実際に飼われていた猫には名前がなかった。夏目家の人々は猫を「ネコ」と呼んでいたのである。漱石はこの猫が亡くなったとき、わざわざ知人たちに猫の死を知らせるはがきまで書いているのに、最後まで名前がなかった。よってこの猫には当然、戒名もなかった。

 

一方的な戒名の授与

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出典 https://www.fashionsnap.com/article/2019-03-05/mark-white/

先日、ドラッグストアで、マリリン・モンロー(1926〜1962)の写真がパッケージになっているフェイスマスクを見かけた。私はびっくりしてしまった。マリリンが亡くなったのは、じつに57年も昔のことなのである。半世紀以上昔の写真だが、化粧品のパッケージとしてなんの古さも違和感もない。マリリンのアイコンとしての天才的カリスマ性に私は感嘆してしまった。

 昭和48年8月6日の新聞記事によると、マリリン・モンローの十三回忌のため、世田谷区の浄土宗寺院、大吉寺で法要がいとなまれた。このとき、マリリンに授与された戒名は、『鞠利院不滅美色煩浪大姉』(まりりいんふめつびしょくはんろうだいし) であった。新聞記事によれば、この戒名の相場は約50万円だという。もちろん、本人は仏教徒ではないから、これは勝手にやっているだけの話で、マリリン本人がどう思っているかは永遠に謎である。

 

 私が個人的にもっとも面白いと思っている戒名は、落語家の7代目立川談志(1936〜2011)がみずから名付けた『立川黒雲斎家元勝手居士』(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)である。「うんこくさい」。これだけユーモアがある戒名はなかなかお目にかかれるものではない。さすがである。

※このブログを書くにあたって、古くからの友人である奈良の古刹の僧侶、寺生まれのTさんにご意見をいただいた。感謝である。なお「戒名」は、宗派によって呼び名が異なる。 「法名」「法号」とする宗派もあるが、報道機関の規定にのっとり、このブログでは特別な場合をのぞいて「戒名」に統一した。

 

 

おわり

 

■参考文献

 小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 

島田裕巳『戒名』法蔵館/1991年

三谷茉沙夫『戒名で読む日本史』三一書房/1993年

上村瑛『大江戸文人戒名考』原書房/2004年

藤井正雄『戒名のはなし』吉川弘文館/2006年

山折哲雄・槇野修『江戸東京の寺社609を歩く』PHP研究所/2011年

桐野作人『猫の日本史』洋泉社/2017年

夜回り先生の件で思ったこと

togetter.com

 今日のブログはかなり憶測でものを書かせていただくがご了承願いたい。

夏休みのおわりが近づいてきて、あちこちで子供、とくに中高生の自殺を危惧する声が出ていて、それもまた風物詩な感じもする。

 

関連ニュース

www3.nhk.or.jp

「学校には行かなくてもいい あなたの命がいちばん大事」 | NHKニュース

これ「学校に行かなくてもいいけど、その後のことは自分で考えて何とかしろ」なんだよな。しかも学校行ってる人は受けられるサービスを受けられない。その欠損を埋める方法がない。

2019/08/22 12:19

b.hatena.ne.jp

2017年度から10〜14歳の死因はがんを抜いて自殺が一位になったそうだが、かといって総数がすごく多いというわけではない。自殺だけで言うならやっぱり圧倒的に中高年の数のほうが多い。だが、子供が命を断ってしまうのはさすがにふびんだ、みたいな感じの雰囲気があるのかなと思う。

mainichi.jp

 

 私自身、不登校かつ引きこもりの経験があって、中学校の2年の夏休み明けから、パタリと学校へ行けなくなった。家では統合失調症になった兄が夜中まで暴れまくっているし、兄に殴られすぎた母は別居して家にはいないし、父はフルタイムで働いているし、家の事をこなす人が私しかいなかった。

兄はトウシツを発病する前に、自己愛性人格障害境界性人格障害という診断を受けたらしいんだけれど、かなりおかしな性格をしていて、私が料理で揚げ物をしていたりすると、後ろから油の入った鍋にいきなり水を注いで来るような嫌がらせをしてくる人だった。(一度ならず台所でぼやを起こしている)難癖をつけられていきなり殴られたり後ろから蹴りあげられたりもした。

そうこうするうちに今度は妹が不登校になってしまった。このとき、妹にも幻聴や幻覚の症状が出ていた。妹と兄とでよく殴り合いのケンカをしていた。

当然ながら私も鬱や不眠を発症した。どうにもつらくてやりきれないから、中学生なのに酒を飲んでリストカットを繰り返すということを頻繁にしていた。

 

このころ、私は児童虐待に関する本を読んでいて、まだ時代が古かったためかその本の著者がなんと自宅の電話番号を本に載せていた。

ある時、精神的に追いつめられた私は、すがる思いでその著者に電話をかけた。

その著者のおじさんはかなりびっくりして、とりあえず私の著作でこれこれこういうものがあるから、それを読んで下さいというような返事だった。

私は失望した。大人になった今では自分の行動が非常識だというのはよくわかるが、そのときはとにかく誰かに救われたかった。

 

夜回り先生に救いを求めて「死にたい」と泣き言をもらす子供たちが、すべて、私のように発達障害だとは思わないのだけれど、昨今すごく病んでいる子供たちが増えているなと思う。ファッションメンヘラという言葉があったり、どうしてそんなにまで精神的に病んでしまっているのかと思ったりする。もともといたのが可視化されただけなのだろうか?かつては発信する手段がなかっただけなのだろうか?

 

強烈な希死念虜にとりつかれている中高生に対して本を読んでくれといってもやっぱり無理だし、夜回り先生だけに負担が集中するのもやっぱりへんだと思う。

こういう時、いちばん良いのはやはり寝てしまうことだ。

安心して寝られる場所で、トコトン眠り続けることだ、それがいちばんの回復につながると思う。だが、死にたいくらい追いつめられている子供は安眠できる場所がなかったりする。難しいところである。

 

なお、不登校かつ引きこもりを経て社会復帰した私の人生は、その後、けちょんけちょんである。今は人不足の時代だからそんなことはないのだが、私のときは超氷河期と言われる時代だったから、高認(旧大検)組は、それだけで落とされた。高校すらまともに卒業できないやつに仕事がつとまるかという目で見られたのである。だからこれを理由にして一般企業へは就職できなかった人を何人も知っている。私の世代は氷河期がすさまじかったからちょっと特殊ではあるが。

 

すごく個人的には、中学生くらいで病んでしまう子とか、あきらかに精神面が弱い子は、その後もかなり警戒したほうがいいのではないかと思う。

生まれて来る個体は精神的に強い人ばかりではなく、精神的にすごく弱い個体も存在する。だが、社会は精神的に弱い人向けには作られていない。ブラック企業に代表されるように、とにかく強靭な精神力と体力を要求するところも多くある。だから精神面がすごく弱い個体は、社会からはじき出されることもやはりありうるだろう。

 

関連ニュースもうひとつ貼っておく

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/dr-rabbit-interview

 

 

 

以下余談

私だってできることなら強靭な肉体と精神力を持って生まれてきたかったなぁとよく思う。できることなら優秀な健常者に産まれたかった。

ついさきほども、発達障害のためにほとんど仕事ができずに焼身自殺した女性の話を聞いたところで、何も本人が希望して発達障害になったわけではないのになんという業なのかと暗澹たる気持ちになったところである。

私が安楽死を望んでいるのは、自殺があんまりにも残酷だという理由からである。その思いをあらたにした。

 

 

おわり