子どもは高卒でもいいんじゃないかというエントリがいくつかあがっていた。
紆余曲折は経たけど、それなりのお仕事をして飯を食うに困らない。(転職をしなくても生きていけるのは、会社が地元に根差してしっかりしているから) 家を建てて同居していない子供に投資するくらいの生活はできます。
高卒でも人生困らない自分に大卒の重要性を理解できない理由がわかった - ポジ熊の人生記
高卒であっても安定した生活を営んで、次世代の再生産ができるのであれば、どれほど良いか。ポジ熊さんもタニシさんもは大学へ行かなかったがそれなりの暮らしを営んでいる。これはとてもラッキーなことだ。
だが高卒でそれなりに豊かに暮らしていけるという人は、実際はかなり地域差が大きい。その地方がどれほど衰退しているかに左右される。個人の努力の問題ではないのだ。
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古い話になるが、昭和中期頃、地方には名だたる大企業の大規模工場がいくつもあって、それらの巨大工場ではおもに地元や周辺地域の中卒や高卒の人が働いていた。
私の親戚の伯父さんもそうした工員のうちの1人で、当時、富◯通の大きな工場で働いていた。高卒で就職したが、好景気の風が吹いて年収が600万以上あった。男の人だから多少ホラ吹いているかもしれないが、残業が多いと月の手取りが80万を越えたこともあったそうだ。この話を聞いたうちの母親は目をぎょろぎょろさせて仰天していた。
大学院を出て博士号を持つ自分の夫よりも高卒の伯父さんのほうが、手取りがはるかに良かったからだ。
伯父さんは大きな立派な家を建て、子どもは二人とも都会の大学へやった。
この伯父さんのケースは、昭和中期に、日本の地方のあちこちに見られた、もっとも成功したモデルケースだ。
昭和後期からこの手の工場がごっそりと姿を消して、中国やタイ、フィリピン、インドネシア…そういった場所へ移ってしまった。もう戻ってこない。
工場の跡地はからっぽになった。跡地にイオンが出来たところもあるが、働いていた人はちりぢりになった。企業はその土地で働く人の生活なんておかまいなしだ。だって海外のほうが人件費が安いから。慈善事業をやってるわけじゃないんだから。
若い人が働く場所がなくなった。若い人は仕事にありつくために都心を目指して故郷を捨てるほかなくなった。過疎化した場所にも仕事がないわけではないが、そのパイは限られている。
地方の若者は、高給や快適な暮らしを胸に抱いて都会へ出るが、彼ら彼女らを待っているのは狭い部屋と高い家賃で、地方より良い給料を得ても、家賃に溶けるようにお金が消えて行ってしまう。
東京の20代前半男性の平均給与が240万というデータがあったが、この数字ではとても結婚はできない。日々暮らしていくのが精一杯だと思う。だから晩婚化する。
地元に残った人が、有形無形の援助を地縁や親などから得られるのに対し、都会へ出た若者はそういった協力を得ることはできない。彼らは地縁を失ってしまうのだ。
地方で地場産業がほとんどなく、若い人の仕事がなく、あっても薄給で働く場所が自衛隊か村役場しかないみたいなところは意外と日本のあちこちにある。沖縄のように米軍基地に依存している土地もある。原発に依存している地方もある。先月あった福井県美浜町の長の訴えは、この地方からどうか産業を奪わないでくれという悲痛な叫びでもある。衰退がきわまると、財政破綻になる。夕張市の厳しい状態を見てみれば、いかにそれが恐ろしいかがよくわかる。
高卒でも安定してそれなりの給料が得られる仕事が日本の各地方に豊富にあれば良いのだが、多くの人は新卒切符をゲットして就職戦線で戦うしかない。このために、社会に出た時点で数百万の借金を背負わなければならない若者が増えている。
少子化で子どもの数が減ってきているのに、奨学金の割合は年々増えている。
http://www.garbagenews.net/archives/1989935.html
半数を超える人が奨学金という借金を背負っているのは、さすがに異常な状態ではないのか。多額の借金を背負って大卒の非正規になってしまう人もいるわけで、一体これはなんだと思わざるをえない。
日本の国は子どもを育てようという意識がもうほとんどない。教育に関する費用(対GDP)がOECD中でも最下位クラスなのはよく知られたことだが、人材を育成するという気持ちがどこにも見られない。
高卒で安定した仕事に就けるのであればどれほど多くの人が救われるだろうかとかねがね思っている。新卒切符のためだけのFラン私立大よりも、高専のほうがはるかに教育投資として良いのではないか。 高専のような学校をもっと増やす事はできないのだろうか?
おわり