けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

雑文

こんな増田があった。悲痛な叫びだ。

anond.hatelabo.jp

 

以前から何度となく書いているが、私の母親発達障害の子どもを複数もったがゆえに体がやられ、入院まで行った。

当時はまだ「発達障害児」という概念そのものがなかった。コンサータストラテラもなかった。今はずいぶん変わったなと思う。発達障害の概念は広まったし、テレビでも多く目にするようになった。

 

発達障害児で他人から見てもパッとわかるレベルというのは相当重症だ。重症でない子どもは一見わからない。だからこそ周りの理解を得られない。

 

それにしても、昨今の日本に、なぜここまで発達障害児が増えてしまったのだろう。

著名な発達障害のクリニックはたいてい新患の受付を停止しているか、診察までに半年以上待つとかいうのがザラだ。

発達障害児を持つ母親は病院へ受診することもできず、支援も受けることができず、投薬に頼ることもできず、日々めまぐるしく動く子どもの世話に追われて一日が終わる。日常で途切れることなくストレスに襲われる。

先日、アレルギー持ちの子どもに牛乳を飲ませた事件があったが、母親が各方面に相談をしていた事から推測するに子どもになんらかの発達障害があるとみるのが妥当だ。母子家庭で母親がフルタイムで働いているのに子どもに発達障害があるとなると、これはもう相当なきつさだと思う。

 

 

shigoto-times.com

 

はせおやさいさんとニャートさんの対談、すごく良い企画だった。それにしてもお二人とも有能なんだろうなという感じがすごい伝わってくる。かっこいい。

 

ニャートさんは少し前に「心が弱い人と強い人の違い」という記事を書いたけれど、ちょっとブコメが荒れてしまった。

nyaaat.hatenablog.com

 

私はやはり、このボトルの底に穴があいていて、つらいことや苦しかったことを適度にぽこぽこ捨てられる性質の人が一番強いのではないかと思っている。

重要なのは「適度に」というところで、大事なところを残しつつ、しんどかったことを流せるスキルがある人は、圧倒的に心が病みにくい。

 

私が発達障害で苦しいなと思うのは情報の取捨選択ができないことだ。

外界へ出ると、ものすごくさまざまな情報が脳に飛び込んでくるが、情報として多くのものを受け取ってしまうのにその処理ができない。情報処理能力がきわめて低いからなのだが。

 

たとえば、私は先日病院へ行くためにバスに30分ほど乗ったのだが、次の日になってもなお乗客の服装と髪型をちくいち覚えている。横に座った人のカバンについたキーホルダーが水色とベージュで構成されていて真ん中にクマっぽい絵が浮き彫りにされていて…という事まで記憶している。

くだらない情報。

だが、情報の取捨選択ができないために記憶を消すことができない。

脳の容量には限界があるから、当然覚えきれないことが出てくる。覚えていなければいけないはずの事が覚えられない。苦しかった記憶、くだらない記憶でただでさえ狭い脳の容量を食っている。

 

 

私は発達障害児にはとにかく早く療育を受けさせてほしいと願っている。

カナダのように、発達障害児だと診断された場合には公的な支援を受けられるようにしてほしい。母親がしんどいときに家事代行を頼める等の支援があって欲しいと思う。

 

しかしこのカナダの政策というのが、どうにも切なくなる話なのだが、なぜ公的支援を定めているかというと、発達障害児は人によっては反社会的な性格を形成しやすいため、それが原因となる重大事件が起きるのを防止するためなのだ。

 

発達障害を持って生まれた人というのはどうしても精神疾患にかかりやすくなる。さきほども書いたが情報の取捨選択が不得意で、ストレスを処理する能力がとても低いから、ストレスから二次障害として精神疾患を発病してしまう可能性が高い。

私自身もそうだったが、定型発達の子どものように振舞うことができないから、大人に攻撃されたり虐待を受ける事が多くなる。いじめにも遭いやすい。虐待を受けたことでボーダーになり、他人を傷つけることになる。

  

それにしても、自分が当事者だから感じるのかもしれないが、なんだってこう、しんどい人生を負わせられないといけないのか。脳の障害を持って生まれたことは一体なんの修行なのかと思う。このことになんの意味があるの。

以前、「猿にも自閉症があった」という記事に「猿に生まれればよかった」というコメントがついていたが心底同意する。

 

 

ニャートさんも、はせおやさいさんも、「ブログに救われた」と言っているのがなんとも印象的だ。

私も、こんなに鬱を垂れ流したブログを書いたのは初めてだが、今年に入ってブログにどれほど救われたかわからない。

よくまぁ読者の人たちはこんな鬱鬱としたブログを読んでくださるものだと思うのだが。

私はまだ、彼女たちのように「生きているだけでいい」という境地に達することができない。働けない自分を無能だと思うし、弱者である自分をなかなか肯定することができない。夫への申し訳なさで一杯になっている。

 

 

今年は本当につらい年だった。仕事を辞めざるをえなくなって絶望して大きな自殺未遂もした。仕事が好きだったからとてつもなく堪えた。

6月以降は2日に一度泣いていたような感じだった。本当にしんどかった。

 

 

 

おわり