けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

事務次官の息子殺害事件について

非常に重い話になるので、嫌な人はリターンしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 のっけからいきなりタイトルと別の話になるが、新幹線殺傷事件での小島被告に対する判決が、先日出た。“無期懲役”であった。小島被告が望みに望んで勝ち取った判決、みたいな形になってしまった。

無期懲役だと早ければ15年ほどで仮出所となるようだが、それは小島被告の望んだ形なのだろうか?

それまで社会適応できなかった、生きる力がそもそもあまりない人が、刑務所からいきなりポンと放り出されてやっていけるものだろうか。制度として決まっているのかもしれないが、それで本当に良いのだろうか。無敵の人を世に放つだけではないのだろうか?私はこの制度に少し疑問を感じている。

 

 

さて、本題であるが、元農林水産省事務次官が息子を殺めてしまった事件の公判が初めて開かれ、それがニュースとなっていた。

www3.nhk.or.jp

この事件が起きたとき、私はすぐにピンと来たのだが、殺された息子さんは発達障害から統合失調症を発病した人物であった(発達障害の診断の方が後だが)。

そしてあまりにも我が家とそっくりなことに私は戦慄した。

父親はエリートで社会的地位も高い。ところが生まれてきた息子はどうにもちょっとおかしい。周囲となじめない。子供のころから凄惨ないじめに遭う。ひきこもって家庭内暴力、10代での統合失調症の発病、本人がどう頑張っても社会適応ができない。

殺された息子さんの少年時代のエピソードなども読んだ。垣間見える性格なんかもうちの兄にそっくり。妹さんもいる。

家族構成から兄の激しい家庭内暴力発達障害統合失調症、類似点が多すぎた。

 

我が家の父親がなぜ息子を殺さずにいたったかと言えば、私の兄の統合失調症はおそらく殺された息子さんよりもはるかに重症で、ネットゲームで人とやりとりができるレベルではなかった。身だしなみすらもほとんどできないレベルだったからだ。だから兄は入院して、父母とは物理的な距離があった。殺し殺されずにすんだのはこのおかげだった。

 

 我が家もそうだったのだが、このようなエリート男性が父親になるとき、よもや自分の息子が障害を持って生まれて来るなどと予想もしない。自分と同じように頑張って勉強して東大に入って、同じように輝かしい道を歩んでほしいと願っている。

 

 この事務次官の息子さんと、新幹線殺傷事件の小島被告とには共通点があって、二人とも発達障害を持ち、社会適応できなかったところである。

小島被告は他者を殺めてしまったが、事務次官の息子さんもまた近くの保育園児を殺すという発言をしていた。これはおそらく本人の持っている聴覚過敏によるストレスが原因であろう。父親は息子が他害に走ることを恐れて息子を殺害するしかなかった。

 

 ところで、私の父親はあきらかに発達障害の特性を持っている。自閉スペクトラムらしき特性があって人の心がまったくわからない人物である。だがそれでも社会適応はできているし、結婚して子供を持ってもいる。

発達障害の専門医に星野仁彦先生という医師がいるのだが、その人が著書の中で、「発達障害の特性は代を経るごとに濃縮されていく」ということを書いている。

これはなるほどと思うところで、父親or母親(もしくはその前の代)が、社会生活上でさほど問題にならないけれどもなにがしかの特性を持っていて、子供にばっちり発達障害が出たという例がけっこうある。これらの記述についての統計はまだないが、いずれ時代が進むにつれてここも解明されてくると思っている。

 

私自身、発達障害者で、どれだけ頑張っても社会適応はできない人間なのだけれど、今のところ幸いにして誰も殺めていないし殺されてもいない。だが、いつどうなってもおかしくないところにいるという認識は強くある。

 

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 余談。

先日、twitterでこのようなツイートを見つけた。

 このツイートにぶらさがったリプなんかを見ると「それはいいですね!」みたいなのが多くあって、いささかう〜んとなってしまう。

というのは、そもそもIT企業に正社員として勤めているだけでもうそもそもかなり優秀だし、発達障害の程度としてはごくごく軽度の部類であろう。それを発達障害者の典型だと思うのは大間違いである。

どれだけ努力しても何も秀でたところのない人もいるし、秀でたところがあったとしてもそれがマネタイズに結びつくとは限らないわけである。

発達障害者、とりわけASDの人が、できない事を出来るようになるというのはかなり至難の技である。おまけに社会性も、育てようにも育たない。なぜならそれが自閉症だからである。

発達障害者の皆が皆、秀でているところがあれば良いのだが、現実はそうではないのが厳しいところである。

すべての能力値が低い人、発達障害の特性を持ち、さらには常識や社会性もない人たちをどのように包括していくのかというのが一番難しいところなのではないかと思う。

 

 

 

おわり