私がほぼ毎日の日課として近所の公園の周りをひたすら片付けていて、2年くらいになる。
公園の掃除をしていると、色々な人が話しかけてくるので、時間があれば簡単にお話をすることがある。
先日、こんな記事があった。
この記事が出る3日ほど前、私は公園のベンチで、たまたま99歳のおばあちゃんと話す機会があった。
これを書いてもおそらく個人特定はされないと思うので、おばあちゃんから聞いた話を軽く書こうと思う。
大正9年生まれ、99歳のおばあちゃんは、杖をつきながらも普通に歩いて、ベンチに座っていた私の隣に腰を降ろして座った。
私は昔の話を聞くのが好きな人間なので、おばあちゃんに古い話を色々と聞き出した。
九州の大きな農家に生まれたというおばあちゃんは、かなりの豪農の娘だったようで、家に使用人が何人もいて、家事は一切したことがなかったそうだ。
それが20歳くらいになって、小倉にある兵器廠へ駆り出されることになった。
小倉の兵器廠については、私は軍事オタクではないから、正直いうとよく知らない。
なのでWikipediaでも貼っておくので、概要はここで読んでください。
このおばあちゃんは、外国人が話した言葉を日本語に翻訳したみたいな不思議な話し方をする人だったのだが、
「兵器廠は本当に大きかったです。建物もすごく大きくて、数万人が働いていました。
私は1階か2階にいて、自動小銃の最終点検を行う仕事をしていました。
小銃や銃を作るのはほとんど全て女性でした。点検も女性でした。ダイヤモンドのついた器具で調べていくんです。
地下にはすごく大きな工場があって、そこで大砲とか戦車みたいな、そういった大きな兵器をつくっていました。地下の工場はすごくうるさかったです。」
この話を聞きながら、私は、かつて自動小銃を作る工場に従事した年配のおばあちゃんを集めたら、今でも自動小銃くらいなら作れてしまうのではないかと、ちょっとシュールなことを考えてしまった。
そして、戦時だから仕方ないのだが、うら若き女性たちが集まって人を殺す兵器を一心不乱に作っているというのがなんとも言えない気持ちになった。
「小倉の兵器廠で作られた兵器は、佐世保の軍港に運ばれてたと思います。あそこに軍港があって、そこから船で全国に運ばれていくんです。
原発が落ちた時は、すぐわかりました。本当はここが標的だったって、すぐにわかりました。私の代わりに死んでくれた人がいるんです。それがずっと胸の奥にあるんです」
25歳で終戦を迎えたおばあちゃんは、再び自分の実家へ戻り、そこから紆余曲折をへて、今は東京に住んでいる。
この秋には娘のところへ引っ越すと言っていたので、もうお話を聞くことはないかもしれないけれど、非常に貴重な時間であった。
足は悪いようだが、頭はすごくしっかりしていて、ものすごく古い記憶でも昨日のことのように話してくれたのがすごかった。
おわり