けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

障害者間にある優生思想について思うこと

ちょっとよくないタイトルをつけてしまったかもしれない。

 

少し前だが、中央官庁で、障害者雇用の水増しがあったというニュースがあって、世間をにぎわわせていた。

中にはゼロのところを水増ししていたり、眼鏡使用者を障害者としてカウントしていたところもあったようで、まぁ簡単にいえば悪質である。

 

障害者の雇用について、現場であきらかな「区別」があるのは障害者のあいだではとても有名である。企業側は「事故で足首の先が片方だけない」とか、そういう健常に限りなく近い人をもとめていて、精神障害発達障害、知的障害とかの障害者はできるだけ避けたい…というか求人がさっぱりないのが現実である。

 

ところで、私事なのだが、少し前に、ネットの発達障害者のコミュニティで、とある人とバトルしてしまった。というのも、その相手の方は、いわゆる福祉におつとめの発達障害児の支援をされている方なのだが、発達障害児には才能がある」と言って譲らない。

例として頻繁に出して来るのが「ビル・ゲイツ」である。

その人の中では「あのビル・ゲイツ発達障害!だから発達障害者はすごい!あのエジソンも!だから発達障害者はがんばれば彼らのようになれる!」という感じなのである。

正直に言うとものすごくしらけてしまった。

このような悲しい勘違いをしてしまう人はけっこういて、このような人といくら話しても無駄だ。

発達障害者の全員がビル・ゲイツになれないことは、よほどのアホでなければすぐわかるだろう。

仕事に就けなかったり、仕事を首になったりして困窮している人が、健常の人にくらべて何倍も多い。引きこもりになる人も圧倒的に多いのが発達障害者だ。

 

ときおりこのブログにも書いてきたが、私の兄は発達障害から二次障害として統合失調症を発症し、もう10年近く病院に入院している。彼のどこに素晴らしい才能があったのか私にはどうしてもわからない。このような身内がいるからか、「皆、才能がある!わからない人は努力していないだけ!」という言説にはもう、徹底的に鼻白んでしまう。

 

発達障害者の中にもいわゆる高IQアスペルガータイプとか、ギフテッドとか呼ばれる人たちがいるのは、ご存知の方もいるかもしれない。

このようなタイプの発達障害者は、高IQゆえに社会に適応できる可能性が高い。

実際に社会適応できているのも、高IQタイプが多いと思う(統計は取れないが)

 

だが、自分はどうしてもそうでない人たちのこと、たとえば発達障害に知的障害をともなっているとか、私のように難病も罹患しているとか、そういう人たちがどうすれば良いのかということを考えてしまう。

 

少し前に、熊谷先生の記事でこのようなものがあった。

www.u-tokyo.ac.jp

熊谷先生はご本人も身体障害者であるが、障害者の当事者研究を行っている人だ。

やはり身体障害者の中にも、パラリンピックに出るような障害者を見て、「どうして自分はこうなれないのだろう」と思う人がいるのだと知って、けっこう腑に落ちた。

 

いま、そのコミュニティで、高IQ型が集まって、「自分たちは高IQだから、自分の弱点を克服すれば健常者をはるかに追い越せる」と息巻いている人たちがいる。

そのへんは自由にやってくれれば良いのだが、それってある種の優生思想なんじゃないのかなと思った次第である。

 

私自身はいくら努力をしても、これからビル・ゲイツになることはできない。

どれだけ理解がしやすいように言葉を簡単にして説明してもその支援者の人は最後まで理解できなかった。その方ももしかしたらアスペルガーなのかもしれないけれど。

 

障害者の中にも一種の優生思想構造があって、それはもしかしたら健常者のそれよりもはるかにシビアなのではないかと思い、備忘録をかねてここに記す。

 

 

おわり

香山リカの記事を読んで雑感

ここしばらくブログからかなり遠ざかってしまっていた。

というのも、父が入院して心臓の手術を受けていたからである。

 

若い頃は痩せぎすでいつもカリカリしてすぐに子供たちを殴っていた父だが、今の容貌はもう立派なおじいちゃんとなり、性格はじつに穏やかな好々爺、たくさんの弟子に慕われる老学者になっている。どうでもいい話だが、wikipediaのとある学者の項には父の経歴が載っている。いちおう、日本においてはそれなりの学者になったのかなと思う。

負担の少ない術式とはいえ手術のリスクはゼロではないから(おまけに心臓である)、もし父が手術中もしくはその後の合併症で亡くなったらどうしようという大きな不安があった。このストレスは自分で気づかないうちにかなり大きくなっていて、じわじわと心がやられていたらしい。私はほとんど体が動かなくなり、こんこんと眠り続けた。7月中は入院準備などもしていたが、本当に昼も夜も寝ていた。

入院中は毎日病院へ通った。父は無事に手術を終えて退院したのだが、父を自宅へ見送ったあと、疲れ果てた私はそれからまたこんこんと眠り続けた。

いまだ、以前の日常生活に戻れないでいる。

 

 

さて、先日だが、このような記事があった。

news.livedoor.com

このブログを以前から読んでいる人はすでにご存知かと思うが、私は確定診断済みの女アスペルガーである。知能検査でもあきらかな凸凹があるし、幼い頃から日常生活でも社会生活でも支障をきたしている。冒頭に父の話が出ているが、父もまた立派なアスペルガーである。

 

私がこの記事を読んで、最初にふと思ったのは「なんで香山リカのところへ行くんだろう」という疑問であった。まぁ簡単に行けるところにあったから行ったのかもしれない。

発達障害の当事者や、精神科医の人であればよく知っていることだが、大人の発達障害の確定診断はとても難しいと言われていて、診断ができる専門外来も数が限られている。私がまだ京都に住んでいたころ、京都府で大人の発達障害の確定診断ができる病院はわずか2〜3ツだった。ようするにしっかりした診断をできる専門医がごくわずかなのである。自分の場合だが、カウンセラーさんの面談まで半年待ち、専門医の確定診断までには計10ヶ月を要した。そのくらい専門外来は混みに混み合っていた。

 

彼女たちは苦しんでいるのだ。

だから精神科の門を叩いたのに、専門医でもない香山氏が知能検査もしないうちから「あなたは違うと思う」という診断をしてしまうことに、私は疑問を感じる。

 

宮尾益知という医師の書いた、『女性のアスペルガー症候群』という本がある。

https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4-%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E7%89%88-%E5%AE%AE%E5%B0%BE%E7%9B%8A%E7%9F%A5-ebook/dp/B01FDIFFLW

 

これを読むとわかるのだが、女性のアスペルガーは男性のアスペルガーと違い、社会性が育っていて、一見それと判断できないことが多いと言われている(理由は不明)。

だから、初対面でふつうに話をしているだけではなかなかわからない当事者がいる。

私も、このようなブログなど書いているが、まず普通に接しているぶんには私がアスペルガーだということに気づく人はめったにいない。

 

発達障害に特徴的な、聴覚過敏/嗅覚過敏/触覚過敏のすべてを私は持っているが、それらの特性はよほど注意して気をつけていなければ他人にはほとんどわからない。(隠しているのもある)

女性のアスペルガーの場合、社会性に問題はないが、身体症状が出てそれに苦しむというタイプもあることがこの本には書かれている。私はまさにこのタイプで、身体症状のほうがひどい。

 

私は、こういう言い方をすると申し訳ないが、香山氏に否定された女性たちのうち、何パーセントかは本物の発達障害の当事者がいたのではないかと思えてならない。

 

わざわざ精神科医を訪れるくらいだから、彼女たちは困っている。少なくとも本人は支障や苦痛を感じている。その理由が知りたい、それは自然なことだ。

 

私の場合だが、発達障害の確定診断がおりたとき、涙がでるほど安堵した。

これまでの死ぬような苦しみはこのためだったのか。あんなに苦しんでいたのはこのためだったのか。胸の奥に大きな悲しみと悔しさ、同時に不思議な安堵感が広がって行くのがわかった。

診察室から出て廊下で泣いていた私に、カウンセラーさんが忘れた書類を渡しに来てくれた。

 

医師に期待をしすぎてはいけないが、患者のことを否定しないでほしいと思った。

 

自分が発達障害ではないかと悩み、苦しむ人が増えたのは、社会がそれだけ先鋭化して、高い能力があることが「普通」になってしまったという背景もあると思っている。

 

 

おわり

妻は、夫の友人とどのように付き合うのが正解なんだろうか?

愚痴ブログです。読みたい人以外は帰ってくれないか。

 

 

以前あった、夫の友人トラブルがいまだに尾をひいています。

夫も苦しんでいるし、私も心にわだかまりを抱えています。

以前、このことは記事にしました。

 

nenesan0102.hatenablog.com

 

そこでいろいろなコメントをいただいたんですが、

夫の友人たちとトラブルになってしまった話 - けっこう毛だらけ猫愛だらけ

理由も言わずずっと不機嫌にしているのも極端な態度で失礼だし、理由も聞かないでその場から泣いて退場するのも極端な気がする。

2018/02/26 15:48

b.hatena.ne.jp

 

まさにこのwoldさんのおっしゃるとおりで、私は今となっては理由を聞けばよかったなと思っています。

私は、夫は私の味方になってくれるだろうと思っていたのですが、夫は「Bの態度がそこまで酷かったとは思えない」との理由で中立の立場をとりました。

Bさんは夫にはニコニコして笑いかけてましたからね…。でも私には仏頂面を取り続けていたので、夫がどうしてもここを理解できないことに、私はすごく寂しさを感じています。つらい。

もともと3人の集まりなのだから、いくら以前から「会ってみたい」と言われていたとしても行かないのがいちばん正解だったのかなと思っています。

「会いたい」と言われていると聞かされて、ホイホイと出かけて行ったのがそもそも失敗だったなと。ホイホイと行っちゃうあたりがアスペだなぁと自分で思ったり。

 

で、今回、夫とまたこの件で険悪になり、ああ、離婚があるとしたらこのへんの亀裂からなんだろうなぁと思ったりしたんですが、いろいろ調べてみて、非常になるほどなと思うことがありましたので、ブログにぜひ書いておきたいと思って、いまこうして書いています。

 

私はモヤモヤしてしまったので、「妻 vs 夫の友人」という図式はあるのかなと思い、あれこれ検索をしてみました。するとこの図式で悩む人の多いこと!

そしてその背景にあるのは、夫側の心理なんですね。

この夫側の心理を書いてみますと…

「自分の友達たちはとても良いやつだから、自分の妻を大事にしてくれるに違いない(だって俺の妻なんだから)」

という先入観があるそうなんですね。

そして、いざ、夫側友人との集まりに妻が一人でぽこっと参加すると、

夫は夫と夫友人とのあいだにそれまでの付き合いがあるから、そちらを優先してしまい、妻を放置しやすい

妻は自分の友人たちと仲良くできるはずだ(だって俺が仲が良いんだから)というフィルタがかかりやすい

夫側友人には、もうすでに築きあげられている人間関係や共有された記憶などが確固たるものとしてあって、夫友人側には、妻を受け入れなければならない義理もとくにないですから、妻だけが放置されてアウェー、みたいなことは、けっこうあるようで、その手のお悩み相談がネットにはわっさわさ転がっているのを知りました。

 

それを知り、私は な、なるほど〜〜!!

 

友達の友達が、友達になれるとは限らないという事象がありますが、これは夫婦とその友人関係にも言えることで、夫と親しい人だから、妻も親しくなれるとは限らないのでしょう。

 

 

それから、これは夫の友人に会ってみて実際にあったことなのですが、

・夫に対する態度と、私に対する態度が全然違う。

・夫友人と二人きりで会ったときと、夫もまじえて会ったときの態度が全然違う

というのも体験したことがあり、げに人間関係は難しきものよと思っています…

 

 

おわり

ZIPPOの物語、それから

※7/7、記事を一部修正いたしました。

 

今年の2月に事件を知り、飼い主さんの許可を得て記事にさせてもらったZIPPO君のその後の記事になります。

2月に書いた記事はこちら。

nenesan0102.hatenablog.com

 

この記事の中でYと書かれている人物が、7月に入り書類送検されました。

飼い主であるzippohideさんの思いたるや、どれほどのものがあったかと。

こちらでは想像もつかないほどのご苦労や悲しみがあったと思います。

 

飼い主のzippohideさんのtwitterを読むとわかるのですが、警察はわざわざYの部屋から見つかった血痕を採取して、それを北海道から本州の分析施設に送り、それが人の血ではなく猫の血であることを突き止め、やっと書類送検にいたったそうです。とてもとても長かった。

 

ここからがまた問題で、はこのままだと不起訴や、かりに起訴されても罰金くらいの軽い刑になってしまう可能性が高いのです。現行の法律の限界ですが…

 

これを受けて、飼い主であるzippohideさんは、札幌地検へ陳情書を送れないかと、twitterで呼びかけています。

 

陳情書は書式がありまして、きちんとした書式で書く必要があります。

自分の場合ですが、下記のような形で書きました。

 

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札幌地方検察庁 検察官殿  

             平成30年7月6日

 

陳情書

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======(本文)========

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  住所    氏名   印

 

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こんな感じです。伝わりますでしょうか。

zippohideさんとやりとりをしていましたら、ふいにZIPPO君の写真が送られてきて

思わず涙が出てしまいました。

 

f:id:nenesan0102:20180706143201j:plain

 

※当初、厳罰を求めるものは「嘆願書」なのかと思い、嘆願書を書いてしまったのですが、嘆願書は減刑を求める場合に書くものらしく、厳罰を求める場合には「陳情書」となるんだそうです。ここの部分を修正いたしました。

 

 

 

おわり

新幹線殺傷事件について発達障害の自分が思うこと

東京から大阪へむかう新幹線の車内で、男女あわせて3人が斬りつけられ、一人の男性が死亡するという痛ましい事件が起きた。

www.sankei.com

亡くなった男性は、東大〜東大院卒の理系の外資系企業の研究者という超エリートだった。

各紙はこの事件を一斉に報道し、また、実父による他人事のようなコメントにも注目が集まっている。

母親は報道関係者にむけて出したコメントの中で「一朗は小さい頃から発達障害があり大変育てにくい子でしたが、私なりに愛情をかけて育ててきました。」と語っており、逮捕された小島容疑者には発達障害があったことがうかがえる。

 

小島容疑者の発達障害は自閉スペクトラム、いわゆるアスペルガーらしく、それは自分とまったく同じである。

この事件を受けて、発達障害の当事者会は「事件と発達障害とは何も関係ありません」といった声明を発表したりしている。だが、私は、この事件において、発達障害が因子になったことは否めないと感じている。私が感じるだけかもしれないが。

 

もちろん、発達障害だから犯罪をおかすわけではない。実際にデータで見ても、精神障害者の犯罪率は、一般人のそれよりも低いようだ。

news.livedoor.com

上記のニュースからの引用となるが、

一般の人が犯罪を犯す割合(精神障害者を除いたわが国の人口全体のうち、精神障害のない刑法犯の割合)は約0.2%であるのに対し、精神障害者が犯罪を犯す割合(精神障害者全体のうち、精神障害刑法犯の割合)は、約0.1%にすぎない。

私は発達障害者なので、発達障害の人の集まるネット上にあるコミュニティに属している。この事件があったのち、コミュニティはこの話題でもちきりである。

「よけいなことをしでかしてくれた」とか「さっさと殺してほしい」とかそういった意見も当事者のあいだから出ている。

そして、発達障害当事者たちの関心は、裁判においてどの程度、発達障害であることが判決に関わって来るのか?である。

弁護士側は、発達障害や特殊な家庭事情をもとに情状酌量を狙って来るかもしれないが、それは発達障害当事者たちにとっては、世間感情を逆なでし、自分たちがさらに迫害されるのではないかという懸念を生んでいる。

 発達障害の当事者たち、親御さんたちの多くは、発達障害者が特殊な特性を持っていても、社会に受け入れられることを望んでいる。しかし、小島容疑者によるこの事件が、発達障害とセットで報道されることによって、発達障害者への差別と迫害がさらに進むことを、多くの人が恐れている。そして、その恐れは小島容疑者への憎悪となっている。

 

 

この事件を報道した多くのニュースに目を通したが、すべてに目を通せたわけではない。だが、小島容疑者が感じた「死にたい」という絶望感は私は非常によくわかる。

私自身、人生がうまくいかなくなり、絶望して書いたのがこのブログである。

nenesan0102.hatenablog.com

nenesan0102.hatenablog.com

 

nenesan0102.hatenablog.com

小島容疑者は仕事が続かず、そのような自分にも絶望していたと思う。

小島容疑者を擁護するわけではないのだが、彼がおちいっていた絶望感、死を望む強い気持ちは、私は肌感覚としてわかるところがある。

 

殺したい欲求が自分にむかえば自殺になるし、他者にむかえば他殺となる。根底にある何かは実は同じなのだと私は思っている。

 

小島容疑者のまわりには、彼を理解してくれる人がいなかったのかもしれない。ここが不幸である。

彼が住んでいた家の祖母も「自殺するといって出て行きました」と言っていて、それなのに捜索願いを出した形跡もない。父親のコメントも、「長いこと会っていないのでわからない」という、ちょっと実父とは思えないほど他人事の感じで、この調子でずーっと本人が接せられてきたのだとしたら、かなり機能不全な家族だったのではないかという疑いを持ってしまう。

 

発達障害の当事者会は、会として「事件と発達障害とは何も関係ありません」と発表しているが、小島容疑者が、発達障害ゆえに人間関係がうまくいかず、少年時代はいじめに遭い、就職しても仕事がうまくいかず、孤立し、仕事をやめざるをえない状態にあったのであれば、とても関係がないとはいえないだろう。

 

私自身、発達障害であることは、人生に大きな影響をあたえている。障害とはそのくらい大きなものだ。だからこそ社会的サポートが必要なのだが、日本はまだまだ障害者に対する理解もサポートも低レベルだ。「生きる場所がない」と何度も感じてきた。

被害者は超エリート男性で、加害者が弱者である無敵の人という、この図式がもう、ものすごくつらい。

 

 

【新幹線3人殺傷】容疑者の母「自殺はあっても他殺なんて思いも及びませんでした」 コメント全文(1/3ページ) - 産経WEST

これ生活保護を含めて金銭的な支援受けてたのかな。

2018/06/12 04:48

b.hatena.ne.jp

自分もそうなのですが、発達障害者で一度でも働けた人の場合は、「働ける人物」と見なされて、金銭的な支援はなにもありません。

精神障害者手帳の等級は3級となり、障害年金的なものもいっさいありません。ここでなにがしかの金銭的な支援策があれば、話はまた違ったのではないかと思えてなりません。

 ■

かつてブログに書いた事もあるが、私の兄もまた、発達障害者で、さらに言うと統合失調症である。兄は強い妄想から包丁をにぎりしめて近所の人をまちぶせしたことがある。なぜか。殺すためである。

兄は用意周到に、近所の人が帰って来る時間を計り、殺害計画を練っていたのだ。

いつ、殺害事件が起こってもなんらおかしくなかったが、事件はたまたま、その家の娘が兄をストーカーと勘違いしたことで未然に防ぐ事ができた。

私は殺人者の家族になっていたかもしれない。そうならなかったのは、本当にただの偶然の重なりなのだ。

nenesan0102.hatenablog.com

 

かつてあったアスペルガー男性による殺人事件がある。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、重い判決が出た。理由は「社会に受け皿がない」という理由だった。

司法が、アスペルガーの人は社会に受け皿がないことを認めてしまったという最低な判決だった。

diamond.jp

小島容疑者に対しては、できるかぎり彼自身で罪を償うべきだと思っている。

発達障害による情状酌量は許されてはならないと思う。

小島容疑者が、他者を殺害しようと思うところまで追いつめられていたことに私は同情する。だが、それで他者を傷つけてよいことにはならない。

 

反対意見ももちろんあると思うが、私は今でも、どこにも行き場のない、生きる場所が見つからない精神障害者に対しては安楽死を認めるべきだと思っている。

 

【新幹線3人殺傷】容疑者の母「自殺はあっても他殺なんて思いも及びませんでした」 コメント全文(1/3ページ) - 産経WEST

自殺したがっている障害者に安楽死の手段を提供してあげる事も一つの支援の形なのでは?と、同じく無職の発達障害者の一人として思うのです。もう未遂は疲れたなあと。

2018/06/12 08:27

b.hatena.ne.jp

 

最後に、犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。 

 

 

おわり

ゾンビに関するとても適当な解説(雑文)

先日、こんな増田がありました。

anond.hatelabo.jp

私はブコメ欄を読むのが好きな人なんですが、ごくわずかに私の記事を思い出してくれる人がいたようでした。嬉しい。

nenesan0102.hatenablog.com

増田には、「火葬だからじゃないか?」というコメントをつけている方がすごく多かったのですが、私も当初はそう思ってたんですけど、日本において火葬が一般化したのは昭和に入ってからの出来事で、それ以前は土葬がごく普通という地域すらあったわけです。ではなぜ、ゾンビ的物語は生まれなかったのだろう?と考えたブログです。

で、このブログはバズってしまいすごく反響があったので、それについて書いたのが返答ブログです。

nenesan0102.hatenablog.com

 

さて、この増田が書いている「なんで日本でゾンビ映画って作れないの」とのお話ですが、日本にもゾンビ(が出て来る)映画はあるようですね。

 

何で日本ってゾンビ映画作れないの

日本で火葬の習慣が一般的になったのは意外にも20世紀に入って以降なので時代劇でゾンビ映画が作れる。(と思ったら既に2015年「ゾンビ時代劇・新撰組オブザデッド」が制作されており評判はすこぶる悪い)

2018/06/10 03:42

b.hatena.ne.jp

ちなみに江戸時代の場合は、大きな樽に死体を入れて、それをそのまま土葬にするのですが、このときに体を小さく折り曲げた形にします。これを「屈葬」と言いまして、なかには手足の関節を反対側に折ったりするという処置をした例もあったようなのですが、それが意味するところは、死後の復活を恐れてのことではないかという見方もあるようです。

 

歴史的な背景

ところで、日本とアメリカではゾンビの扱いがまったく違います。

日本でゾンビ映画が好きな人というのも、基本的にはアメリカのゾンビ映画をさしていると思います。日本において、邦画で、幅広く受け入れられたゾンビ映画というのは、私の記憶のかぎりでは全然ないです。

ここには歴史的な背景があって、アメリカでは、1929年に発表された、『魔術の島』という本が、ゾンビの発祥の地であるハイチ・ブームを引き起こしたと言われています。1929年というと日本では昭和4年です。このアメリカで起きたハイチ・ブームが、日本にまで波及したという記録はおそらくですがないと思います。

アメリカ→ハイチと、日本→ハイチでは、距離的な遠さが全然違うのです。

アメリカでは、ハイチ・ブームを受けて、実際にハイチへ旅行に訪れる人もたくさんいたわけですが、日本からハイチへ行くなどというのは、昭和初期の頃にはいくらブームが起きても無理な話だったでしょう。

 

さらにこのハイチ・ブームを受けて作られた映画が、1932年の『恐怖城』という映画で、この映画の中では、女主人公が、ブードゥー教の呪術師によってゾンビに変えられてしまうというエピソードが出てきます。ロメロ以前のアメリカにおけるゾンビが出て来る映画というのはおそらくこれが初ではないかと言われています。

 

ところで、ゾンビにはこれまた歴史的な背景があって、ゾンビの本来のスタイルは、「死者が、ブードゥー教の呪術師によって死後も無理矢理働かされる」というのが元来の姿です。ブードゥー教はアフリカ生まれの宗教ですが、ハイチにおいて大きく成長した宗教です。

もともとブードゥー教という宗教におけるゾンビがあり、1920年代〜30年代にかけてのハイチ・ブームが背景にあり、元来のゾンビ像に吸血鬼をプラスして登場したのが、1968年の、ジョージ・A・ロメロによるゾンビ映画となるわけです。ですから、近代ゾンビはロメロによる創作と言っても良いのかもしれません。ロメロ監督によるゾンビ映画は世界中で大ヒット、いわゆる「ゾンビ像」は、このロメロによる近代ゾンビというのが一気に広まります。この認識が日本でもかなり幅広く受け入れられたようです。

 

さて、一方で日本におけるゾンビ像というと、ブログにあるように過去の物語をあたっても、ゾンビ的なものはほとんどありません。『小栗判官』の物語がかろうじてゾンビぽさを持っているのですが、魂を失うとか人を襲うとかそういうことはしません。

近代ゾンビ的な発想は本当に今の時代ならではなのだと思います。さらに映画となると、基本はロメロ路線のゾンビ映画が日本でもヒットしたので、ゾンビ映画というとアメリカのものを思い出す人がほとんどでしょう。

 

簡単に書いてきてしまいましたが、日本で、邦画のゾンビ映画が作られない、あまりなじみがないのには、宗教的、歴史的な背景があるのです。

 

 

 

だいぶ簡単に書いてしまいましたが、おわり。

 

 

 

 

 

 

 

鈴虫、松虫

anond.hatelabo.jp

大学生のころ、京都の有名寺院のお坊さんと付き合っていたことがある。相当に有名なお寺さんなので、人に話すとびっくりされた。

(余談だがその坊さんと別れたあと、また別の坊さんと付き合った。出会った場所はまったく違うのに、どういうわけか同じ宗派だった。何かのご縁であろうか)

 

なんでまたその坊さんと付き合うことになったのかというと、大学の授業がそのお寺さんであり、唱うように読み上げるお経に心をつかまれてしまったからである。

お経をお坊さん2人で読み上げていくのだが、ビブラートのかかった美しい声がこだましていく。いわゆる声明(しょうみょう)というのともまた違うものらしいのだが、響く歌声がとにかくすごい。圧巻である。心がゆさぶられて気がつくと泣いていた。

 

 

京都の東山に「安楽寺」というお寺さんがあって、ここはなんとも悲しい伝説のある寺である。

 

鎌倉時代の初期、後鳥羽上皇の女官に、松虫姫、鈴虫姫という若い女性がいた。このとき、松虫姫19歳、鈴虫姫17歳。

二人は法然上人や法然上人の弟子である親鸞上人、のちに安楽寺の寺の由来となる安楽房という僧、住蓮上人などから仏教の教えを受けるうちに、みずからも仏門に入りたいという思いをつのらせていきます。

そしてついに、上皇の留守中に二人は御所を出奔、鹿ヶ谷にある住蓮上人と安楽上人の修行場をたずね、念仏会に参加します。そして二人は仏門に入りたいとの切なる想いを上人たちに訴えます。

しかし、一度は僧たちはこの訴えを退けるのですが、姫たちの詠んだ句、

“哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき”

に心をうたれ、彼女たちの入門をゆるします。

松虫姫と鈴虫姫はさらに上人たちと親しくなり、後鳥羽上皇の留守中に上人たちを御所へ呼び、さらには「遅くなったから」という理由で御所に二人を泊まらせたとも言われています。

女房二人の身勝手な出家と、留守中に御所に上人たちを泊まらせたことに後鳥羽上皇は大激怒し、法然親鸞をはじめとする浄土宗の中心人物を流刑にし、住蓮上人、安楽上人の二人は処刑されてしまいます。

松虫姫、鈴虫姫も御所を追われて瀬戸内海にある小さな島で余生を送ったそうです。

 

この事件は「承元の法難」と呼ばれていて、鎌倉時代に起きた新興仏教への弾圧のひとつである。

安楽上人への処刑の方法はかなりすさまじくて、「羅切」(らせつ)と言って、男性の大事なあそこをチョンと斬ってしまったあとに斬首をするというかなり凄惨な処刑をしている。このことから後鳥羽上皇が松虫姫、鈴虫姫と上人たちの仲を疑ったことはおそらく間違いなく、御所に二人の上人を泊めていることからもそれは疑われても仕方のない感じである。二人とも今でいえばJKみたいな年齢であるから、ほんのかるい気持ちで「遅くなったからどうぞお泊まりください」くらいの感じだったのであろうけれども、安楽上人はたいへんな美坊主だったという説もあって、もしかしたら本当に男女の仲であったかもしれない。伝説なので、本当のところは誰にもわからない。

 

この悲劇の場所となった鹿ヶ谷の草庵にあった場所に、のちに建てられたのが「安楽寺」である。

紅葉の時期は大変美しい姿を見せてくれる。

 

anrakuji-kyoto.com

 

 ■

 

…というわけで、松虫姫、鈴虫姫の伝説を知ったときに、ああ、やはりお経に心をゆさぶられてよろめいてしまう人は過去にもいたのだなぁと思った次第である。

私も、仏門に入りたいと思っている。

 

 

 

 

おわり