けっこう毛だらけ猫愛だらけ

いつもニャーニャー鳴いています。

雑感

先日、こんな増田があった。

anond.hatelabo.jp

これを読んで私がつけたコメントがこちら。

働くの不安なニートちょっとこい派遣社員やってみろ【追記あり】

増田よりはるかに低能な私が来ました。仕事に行ったらまず次の日高熱を出して寝込む。体がガチに弱い人ってどんな仕事に就けばいいんだろ。朝出勤するだけで職場で気を失って倒れるみたいなレベルの人…

2020/07/20 00:29

b.hatena.ne.jp

 じつはこれ、現在進行形で私自身がこんな調子なのである。だから働く事はできないので、家でほとんど寝たきりになっている。

「極度に体が弱い人はどのような仕事ができるのか?」というのは、かなり昔から不思議に思っていたが正解がいまだにわからない。社会のほとんどの仕事は最低限の体力があることを前提に設定されているからだ。やはり「職に就く事自体」が贅沢で、生活保護が通ればマシ、最悪餓死という感じなのだろうか。

ほぼ寝たきりのままで何ができるかと言うと、内職とか株とか?ずーっと疑問なので、誰かわかる人がいたら教えてほしいくらいです。

 ちなみに私は10代のときに7年ほど引きこもったんですが、その後なんとか働こうとして近所のファミレスに応募、歳が若いので採用されてファミレスのキッチンで働こうとするも次の日にはもう39.2度の高熱が出て気づいたら昼2時すぎ、店長から怒りの電話がかかってきて「ウチ、そういう子いらないから。今すぐ店に来るか辞めるか決めて!」と言われて実質クビ、その後飲食店で週3くらいのバイトをするもこれも体力がもたずにギブアップ、疲れとADHDからミス頻発。「どこか悪いの?病気なら治してからまた来て」とこれもまたクビ。へたに見た目は普通どころかタフそうな見た目をしてるのでよけい責められて大変。

 私の体の極端な弱さはおそらく発達障害から来るものだろうというのを何年か前に医師に言われたりしたんですが、それにしたってあんまりに無能すぎてやるせなくてどうしようもない。だから私は雇われて働いた経験というのはほとんどなくて、一人で自分で自営業をやっていたんですけど、これまた経営が失敗して自殺寸前まで行きました。体力的に仕事を請けられなくなったのが大きな原因でした。

yomidr.yomiuri.co.jp

私の場合、体がほとんど動かなくなって極端な疲れの原因はおそらくは脳内のセロトニンが少ないことがあるんじゃないかと推測しています。もともと私はアスペルガーなので、脳内物質の異常がおきる可能性も、(通常の人に比べると)高い。4月くらいだったかな。血液検査を一通りしたんですが異常なし。何が原因かというともう脳くらいしかない。同じアスペルガーでも私の父親なんかは外国でバリバリ仕事するタフな人でしたから、おそらくは脳内の物質のタイプが少し違うのでしょう。

anond.hatelabo.jp

 匿名ダイアリーを読んでいると、時々「身内が引きこもりで…」みたいなのが立つんですけど、私はけっこう「これ発達障害と違うんかな」と思ってしまうんですけど、ただもう「体力が落ちてしまって働くこと自体が難しい」という人もいるのかなと思ったりします。

 以前あった中高年ひきこもりの記事なんかで、中高年ひきこもりの人がその後どうなるかというとやっぱり自殺が多いんだというのがあって、「あー、そりゃそうだよな」と思ってしまったことがあるんですが、本人だってできれば自殺とかしたくないだろうし、自殺って発見する方もつらいじゃないですか。だから私は自殺には反対です。

…とまぁそんなわけで、私は自分のことは、ほとんどめったにいない無能だと思っているんですけど、好きで無能に生まれてるわけじゃないし、無能を自覚しながらそれでも生きていかなくちゃいけなっていうのはものすごくしんどいです。発達障害系の人にはよくある話なんですが、自分が働くことでまわりに迷惑をかけてしまうというのが、すごくキツイ。よく、生活保護の人とかへのバッシングとかで「働けよ」っていうのあるじゃないですか。あれほんと現状をわかってねーなと思うんです。働くとまわりが迷惑するって人もいるんだよ。

 いつだったか、母親に「あんたみたいな人がたくさんいたら社会がまわらない」みたいなことを言われたんですが、これはたしかに自分でもそう思うんですよね。とにかく体調が不安定で、下手すると公共の場所でも嘔吐してしまうし。店で店員さんがゲロ吐いてたら嫌じゃないですか。ほとんどの仕事っていうのは、体調が安定していることをベースにしてるので、私くらいの虚弱な人ばかりになったらたぶん種族として存続できなさそう。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 ところで、少し前にあったシロクマ先生の記事ですが、私は少子化をもたらしているのは低賃金長時間労働だと思っています。

 私くらい超脆弱な個体はむしろかなりの少数派ですが、世の中にはタフな人もいて。残業込みの仕事をガンガンこなしたあと、週末は徹夜で車を飛ばしてサーフィン、ガッツリ遊んでまた徹夜で帰ってきて2時間仮眠してそのまま次の週も仕事、みたいな人もやっぱりいるわけです。このくらいタフだと長時間労働に耐えうるので、そういう個体が次世代を作って行くのかなと思ったりします。うわーこれが自然淘汰なのか?知らんけど。私の知人にもこのくらいタフな人はちらほらいて、当たり前のように子どもも作っているし、またそういうとこの子どもはだいたい生まれつき強い。なんか優生思想になっちゃうんですけど、高負荷、高ストレスに耐えうる人間が次世代を作った方が良いんじゃないかと思うんですよ。脆弱な個体だと生きるのつらいし。優生思想?新ダーウィニズム?わからんけど。

 自分はもうとてもじゃないけど子どもとかを持つ余裕はなくて、とにかく体がもたなくて無理で、おそらく妊娠する力もほぼないと思うんですが、子どもができたらできたで今度は高確率で障害児なので、う〜ん、これはちょっとなという感じになってきてしまうわけで。

 少し話が戻るんですけど、最近の日本人ってあまりに働かされすぎてませんか。長時間労働が当たり前になっていて、それに耐えられない人はニートとか引きこもりになるしかなくて両極端というか。

生きるために仕事しているんじゃなくて、仕事するために生きてるみたいになってる。低賃金だから長時間働かないと生活できない。そうなったら強靭な個体だけしか余裕を持てない社会になっちゃう。もう実際この状態になってる。

 私は仕事するために人生があるなんて思ってないです。ヨーロッパ人みたいな発想だけど楽しむためにあると思っている。なんでか日本人ってあまりそういう発想しなくないですか。なんかギリギリ皆が苦しまねばならない!みたいな…。私からするとそっちのほうがすごく不健全な感じがするんだけど、でも自分のような感覚はかなり変わったほうなんでしょうね。

 

 

雑感なのでおわり。

 

新型コロナを「ただの風邪」と言う主張に違和感を感じる

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 この写真は都知事選のとき、立候補のポスター掲示板を撮ったものなんですが、最近、このような「新型コロナはただの風邪だ」というような主張が一部で出てきていて、そのことにすごい違和感があります。

  新型コロナのれっきとした闘病歴がすでにあって、そのうえで「いや、ホント普段の風邪とまるで変わらなかった」という感想を一個人が言うのでしたら、「そういう症例もあるかな」と思うのですが、かかった実体験がない人が「コロナはただの風邪」と言うのは、ちょっとなにか違うかなと思います。

www3.nhk.or.jp

  新型コロナに関しては以前から「肺が繊維化してしまう」という話があって、後遺症がかなりヤバイぞという説がありました。

Twitter上では、NHKのこの報道がある以前から後遺症についての体験談が複数あり、Twitterにはデマがちらほらある事を考慮しても、後遺症を考えると「ただの風邪」と言ってしまうのにはあまりにも危険すぎる。

後遺症について、どのような人がなぜどのような因子によって起きるのか今のところまだまだ不明で、後遺症をどのように防げば良いのかもよくわからない。新型コロナ感染自体を含めてまるでたちの悪いロシアンルーレットのようである。

 

 今日になってこのような記事も出た。

toyokeizai.net

 私個人としてはできるだけ以前の生活に戻りたいし、新型コロナにも治療法が確立してほしいと願っています。しかしこの「新型コロナは風邪だ」というタイプの人って一体どういう心理なんでしょうね。 上にある写真の平塚正幸さんのtwitterとか見に行ってみたんですけど、新型コロナを心配する人を「コロナ脳」って呼んで馬鹿にしていて、う〜ん、なんかそういうもんなのかなという感じでした。ようするにコロナ以前とまったく変わらない生活をしてピーキャー騒いで、かかったらあきらめようぜ!という感じなのでしょうか。

 

 新型コロナの悩ましいところは、まったく無症状の人が感染力を持っているところで、実はキャリアの人が「無症状だからいいだろう」とマスクなしで行動して、別の誰かを感染させる可能性があるところです。アメリカであったけれど、症状がないからとBBQに参加した人がいて、同じBBQに参加した別のおっさんが重症化して亡くなってしまいました。これは家族としてはたまったもんじゃないよ。

www.donga.com

 アメリカでマスク拒否運動みたいなのがあるらしい。私はこれについては反対です。

私はでかけるときは必ずマスクをしているんですが、それは自分がもしかすると無症状のキャリアで、こちらがうつす可能性が完全には否定できないからです。自分がうつしたと思われる人が亡くなってしまったら、それこそ気まずいなんてもんじゃないですよ。私なんか自分で言ったらアホみたいですけどすごく神経が細い方なので、そんなの絶対に嫌なので外出時はかならずマスクはしています。

 

  自分のまわりにも何人かいるんですけど、たとえば障害があってどうしてもマスクができないとかの特殊例を除いて、マスクをしない人ていうのは、どこかでコロナ舐めてますね。「死ぬ人もいるみたいだけど、それは自分じゃないよな」という感じですかね。自分が移してしまう側になるかも?という感覚はほとんどなかったりします。

 知り合いのおばあちゃんなんか「私はいつ死んでもいいのヨ、オホホ」とか言って笑ってて全然マスクしよらへんのですけど、あのね、あなたが勝手に死ぬんだったら勝手だけど、救急車も病院も医療関係者も全部ひっくるめてリソースあなたが食うんでしょ?そこまで考えてないでしょ?って感じです。いや言いませんけど。

 重症化していないのは、たまたまホストの人たちの免疫が正常に機能していたというだけの話で、だから回し飲みしていいよって話じゃないと思います。

 

 それにしても、新型コロナってもう、バンバン弱いところを狙ってきますよね…。コロナで逆に儲かったという業界もあるかもしれませんが、そんなのごく一部だしなぁ。

私はしっかりマスクをつけたままで夏を乗り切ろうかと思っています。あごの下がスカッと抜けてるタイプのマスクは息苦しくないらしいですし。ちなみにマスクが予防になるという意識はそこまではっきりはありません。ただ、すべての人がマスクをしっかりつけたら、ずいぶん感染は違うんじゃないでしょうか。

(あとでマスクのアフィリエイトでも貼ります)

 

 

おわり

 

 

大西発言について個人的に思うこと

れいわ新撰組の大西つねき氏が、「命の選別」という発言をして大きな話題となっている。

www.asahi.com

私は大西氏のことをうっすらとしか知らないのであるが、この人はもともと外資系(JPモルガン)にいてディーラーをやっていたという輝かしい経歴らしい。

1986年にJPモルガン入行だなんて…扱うお金の桁が違うよ…バブル時代だよ、すごそう。超がつくほどの勝ち組じゃん。

 そもそも弱者救済を掲げて実際に社会的弱者である障害者を候補者にした「れいわ新撰組」に、なぜこんなにもバリバリの社会的強者である大西氏がジョインしているのか、個人的には少し不思議な感じがしていた。大西氏は経済アナリストであるから、経済優先で考えるのならば障害者の存在となにかこう、しっくりこないものがあったからである。

  「れいわ新撰組」には、現在、木村さん、ふなごさんという二人の議員がいる。この二人は「特定枠」という特殊な方法をもちいて当選した経緯があって、この二人のかわりに山本太郎は議員の立場を失っている。

 実は私自身も、いったい、全国の人はどれだけ、この二人に期待があるのだろうかという関心があった。それで開票直後の得票数にかなり注目していたのだが、木村さんふなごさんともにだいたい4〜5千票くらいの得票数で、日本全体の有権者数が1億人を超えることを考えると、木村さんふなごさんを純粋に支持していた人はきわめて少数派であるのだなと、そんなことを考えたりした。木村さんふなごさんの二名で得た得票数をざっくり有権者数から割り出すと、1億強の有権者のうちの約1万で0.01%いかない程度である。本当にわずかだということがわかる。

www.jiji.com

 「れいわ新撰組」の代表である山本太郎氏は、その知名度もあって99万票を獲得していていて、この票を「特定枠」で使って当選となったのが、木村ふなごの両議員なわけである。木村さんふなごさんの、重度障害者の人が国会議員になったというのは、国会の歴史の中でもきわめて画期的なことで、山本太郎自身が議席を失ってでもこの二人を国政に送り込んだことには大きな意味があったと私は思っている。

 ところでさきの大西氏の「命の選別」発言の映像を見たが、これはさすがにアウトである。党の方針とも合わない。しかしながら、どこかでこのような発言が出てきてしまうのも無理はないと思うところがちょっとある。そのくらい、多くのあふれかえる老人たちを抱えるのがこれからの日本だからである。

anond.hatelabo.jp

 この増田がリアルだ。この人は両親が相次いで要介護状態となり、その費用に毎月40万ほどがかかっている。もちろん親の年金などがあるからいきなり40万がごっそり出て行くわけではないが、帰省のための費用、その他の雑費など、出て行くお金はかなりあるだろう。だが今の時代だからこの費用で済んでいるのであって、これから先、親の年金は減らされ、介護費用はますます高くなる。そして何より介護の手がなくなる。だから20年後とかになると「両親二人で月70万かかる」とかなってもおかしくない。これが少子化の現実である。

 この増田の場合は、まだ両親の年金がある。しかし世の中には無年金の人だってゴロゴロいるし、はたまた子どもの方が、「一人娘で重度障害」とか、そういったケースも確実にある。この先、ますます削られて行く社会保障費でそのようなケースをいつまで救済できるのだろうか。当事者の困窮はすさまじいのではないか。

 しかし、それでも命の選別というのはしてはいけない。

なぜ老人に近い年齢の大西氏がこのような発言をしてしまったのだろうか。自分が選別される側になるという感覚がごっそり抜け落ちていたのだろうか。

 私自身は積極的安楽死推進派であって、このようなことを書くと「じゃあお前も植松だろう」という混同をされがちなのだが、自己決定権と、命の選別というのはまったくの別物である。ここが難しいのだが、社会的弱者が否応なしに追いつめられて、本当は不本意だけれど“自分の意思として”安楽死を選ばざるをえなくなったとき、やはりそれはマクロで見れば「命の選別」となってしまう。

ただ、私自身としては、困窮のはてに自死せざるをえないのはまったく人道的ではないと思うので、選択肢としての安楽死はあってほしいと思う。

nenesan0102.hatenablog.com

(このブログを書いたのももう3年も前になるのかと思うとちょっと感慨深い。)

 

つい先日、障害者であることの経済的な損失というのをふと考えて暗澹たる気持ちになった。まともに働けないことから始まって、生涯単位での医療費、単純計算でも億単位で損失しているんじゃないかと思う。もちろん人間を生産性で見る事は表向きにはそれは駄目なんだけれども、「それはわかってるけどすげぇキツイっすわー」というのが本音である。無能な個体に生まれるともうすごくしんどい。

 

  時々考えてしまうのだけれど、私が安楽死を望んでいるのは生きていること自体が苦痛だからであって、障害がなく別の個体であったならばまた感じ方は違う。大西氏のように、自分自身のちからで人生を切り開いてきたような人はメンタリティがまったく違う。架空の話であるが、私が大西氏に生まれていたなら、積極的安楽死なんてことは言い出さずに人生をエンジョイしていただろう。

 私が安楽死を望んでいるのは、「自殺があまりにも残酷な死に方であるから」という理由である。自死は本人だけでなく周囲にも大きなダメージを与える。

 この先の日本で、ずーっと安楽死尊厳死が認められず、老人介護をとりまく環境が悪化の一途をたどるのであれば、介護による殺人、それこそ「伏見介護殺人事件」のような悲しい事件がごく当たり前のことになってしまう可能性がある。それは人道的であると言えるのだろうか。

www.dailyshincho.jp

  大西氏の発言は私はうかつであったと思うし、命の選別は許されることではないだろう。コロナ禍によってさらにますます厳しくなる財政事情や少子化によるこの先の日本のことを考えたら、はたして今のままの路線を放置していてそれで良いのだろうかというのは思う。 議論することから逃げることで苦しむ人をわざわざ生み出しているように思えて仕方ない。個人的にはもう議論すべき段階に入っていると思う。

 ちなみに尊厳死については八割もの人々が賛成しているというアンケートがある。いい加減に法整備について議論をすすめてもらいたいものである。こちらのサイトは、「尊厳死」と「安楽死」との違いがわかりやすく説明されているのでおすすめ。

www.minnanokaigo.com

 

 

おわり 

無題

今日のブログにはメンタル系の重い話が含まれるので、いやな人はリターンしてください。

 

 

 ここ数年、私は近所の公園のゴミ拾いをしている。そこで色々な知り合いができた。こうして顔見知りになった人の中で、コロナ自粛期間ほとんど会わなくなったAさんという70歳くらいのおばあさんがいた。

 先日公園にいたところ、たまたまAさんが向こうから歩いて来るのを見て手を振った。

近くに来たAさんを見てびっくりした。目が落ちくぼみ10歳くらい老けた感じ。そしてげっそりと痩せこけていた。

思わず「痩せましたね!」と言うと、突如Aさんが「私、精神病なんです…」と言い始めた。心の中で「ええ…」と思いながらも私はこの後、Aさんの話を数十分に渡って聞くことになった。

 まだ20代のはじめに突然発病したこと、それから寛解期を経て結婚したが夫のDVによって離婚したこと、そこからは懸命に働いてきたが2年前に突然また職場で発病して救急車で運ばれてそのまま入院したこと。今年になって炊事をするのが困難になり食べることすらままならなくなってげっそりと痩せてしまったという。

 参ったのは、Aさんの希死念慮がかなりひどく、「つらくてつらくて…今すぐにでも死にたいです」とか、「あの川に飛び込んだら死ねるのかなとか思うんです」とかボソボソと言われるのがキツかった。具体的な死に方を話されるたびに腹の奥に冷たい石をねじこまれているような感じだった。

 

 Aさんには一人息子がいて、この息子が30代後半なのだが、「新しい車が欲しい」という理由でサラ金から借金、その肩代わりをAさんに頼んできた。それをAさんが拒んだところ息子は怒ってそれからAさんと会話すらしなくなってしまった。

 Aさんがもし、強い希死念慮に耐えかねて自殺をしたら、おそらく第一発見者は息子で、遺体確認するのも息子になるのだが、これは息子からすればだいぶ迷惑な話であろう。精神を病んだ家族がいるというのはそれだけでなかなかにきついものなのだが、いつ死ぬかわからないという人を身近に抱えているのは、それはそれで精神的な重圧がある。

 全国的に見れば、Aさんのような今後に課題を抱えた家族は何十万、何百万人にものぼるわけで、今後、行政はどのように対処していくつもりなのだろうか。家族がみろ看病しろといっても限界がある。結局、どうすれば良いのか解決策が見つからないまま、時が来たらなるようにしかならないのが現状である。難しいものである。

 ■

 私がびっくりしたのは、Aさんがかつてはこのような人物ではなかったということだ。働くのが大好きで仕事をバリバリとこなし、職場の皆と連れ立って居酒屋でワイワイと騒ぎ飲み、居酒屋からカラオケはしごも頻繁にあり、ハキハキとしゃべりキビキビと動く、活動的な人だったというのだ。今の彼女は頭がまわらないのか話すのもゆっくりで、よちよちした歩き方しかできない。

ほんのわずかな脳内物質の変容が、彼女をこんなにまで変えてしまったのだ。

 

 私はもともと精神論や精神論をぶちあげる人が嫌いだ。というのは、脳内のほんの些細な変化によって人の精神というのはいかようにも変わってしまうからだ。たまたまそのとき、脳や体内の生理環境がうまく歯車が回っていただけの話で、精神論をぶちあげる人自身が、明日脳に変容をきたさないという確約はどこにもない。いつ誰が具合を悪くするかなんてほとんどガチャなのだ。

 

 Aさんはもともとすごく律儀な人だ。私に「聞いてもらってとても気持ちが軽くなりました。ありがとうございました」と何度も頭を下げて帰って行った。

 私はまた、ゴミ拾いを再開した。

 

 

 

 おわり

 

人種差別についての雑感

東京へ引越してきてまる3年以上が経った。こちらで暮らしてみて思うのは、外国人が少ないことだ。京都にいた時はとにかく外国人がたくさんいた。観光客もいるし、まず外国人を見ない日がないくらいだった。自分にもいろいろな国の知人友人がいた。

 妹のいた大学には、大学院生が留学生の面倒をあれこれみるという都合のよいプログラムがあったのだけれど、妹が担当になったのはチュニジア系フランス人の女性だった。すごく背が高くて、肌の色と髪の毛の色が黒いけれど、顔つきはほぼ白人という人だった。髪の毛はアフロみたいにちりちりの髪の毛だった。

 たまにアフリカから来たとおぼしき人々を見た。おそらく京大への留学生の家族かなと思うのだけれど、アメリカの黒人と雰囲気がまったく違うのだ。服装も言葉もまるで違う。

 よく家の近所を三ツ揃えのスーツをビシッと着こなした黒人男性が歩いていたので、たまにお互いに会釈をしていた。話すことはなかったけれど、京都のあの暑さの中で常に三ツ揃えのストライプのスーツを着こなしている彼に感嘆した。彼は一体なぜどうして、どういう経緯で京都へ来ていたのだろう。アメリカの人ではない感じもするが、どの国の人かもわからないうちに姿を見かけなくなった。

 

 先日、いつも掃除をしている公園で黒人女性を見た。話すことができたので聞いてみたらジャマイカの人だった。いま、私の住むあたりでは黒人を見る事はすごく少ないのと、ジャマイカ人と会ったのが初めてで、「へー!」となった。

 私の父は学者なのだがとにかく海外が好きで、チャンスさえあればポンポンと海外へ飛び出して行く人であった。観光ではなく人がほとんど行かないような場所へ調査に行っていた。

私が生まれる直前はアフリカにいて、母の「生まれそう」という電報を受け取ってフランス経由で3〜4日かけて帰国してなんとか間に合った。(間に合ってよかった)

 父にアフリカで何が大変だったかというのを聞くと、「黒人の顔が見分けがつかなくて困った」と言っていたことがある。アメリカの黒人のようなタイプではなくて、肌が黒すぎて青黒いレベルの人のことである。それでも数ヶ月経つと見慣れてきて、誰が誰かというのはわかってくるらしい。慣れってすごい。なお、このアフリカ滞在で、父はアフリカ人の驚異的な身体能力をまざまざと目にした。

 

 私が9歳か10歳くらいの時だったと思う。父はまた仕事で1年ほど海外に滞在して帰ってきた。南米のほとんど南極圏に近いくらいのところで、そこまで行くと僻地すぎてホテルそのものがないので、父と仲間の人たちは特別な許可を得て英軍基地に滞在していた。そのとき、その英軍基地に滞在していた日本人は父を含めてわずか数人。その他には英国の軍人と現地の白人(非軍人)しかいないという特殊な環境だった。

 父たちの集団はどこからどう見てもアジア人である。街を歩いているとき、道行く白人から唾を吐きかけられ暴言を吐かれた。この話を聞いた私は大変なショックを受けた。ショックを受けた私を見て、父は「あ、しまった」という顔をした。

私は「人種差別」というものがあるのは把握していたが、そこに日本人が、というか自分の父親が含まれるとは無邪気にも思っていなかったのだ。日本人は黒人ほどは肌の色は黒くない。そのため、ナチュラルに自分たちは被差別側ではないのだと、どこかでそう信じてしまっていた。

 

twitterで、こんな動画を見た。

 この動画の後半で女の子は泣き出してしまう。私は黒人ではないけれどああ、なんかこれわかる…となった。私にとって父は一人の人間だけれど、唾を吐いた白人から見れば「黄色い猿」なのだ。父が、一人の人間として見られなかったことに私は怒った。顔もわからない白人に強い怒りを覚えた。

 父があからさまな人種差別を受けた話はダイレクトにはこの話しか聞いていない。父は本当に様々な国へ行く人だったので、一人のアジア人として、それなりの差別に出会ってきている可能性がある。しかし彼は子どもにはそのような話をけして言わなかった。「しまった」という顔をしたのは、やはり日本人が被差別側だという話を子どもには言いたくなかったのかもしれない。 

  どこかの記事で、「ジェシー・ワシントン事件」についてコメントで書いたことがあった。ご存知ない方もいるかもしれないので記事のリンクを貼る。(閲覧注意、死体写真があります)

ja.wikipedia.org

 ジェシー・ワシントン事件は、1万5千人もの群衆が17歳の少年が生きたまま焼き殺されるのを歓声を挙げて見ていたという、おぞましい事件である。黒こげになった彼の遺体から歯が抜かれて土産物として売られ、リンチ光景を撮影した写真家はそれを絵はがきにして大もうけしたというのがもう、今の時代からすると絶句するレベルだが、この当時、ジェシーの歯を売った子どもにも、骨を売った人にもあまり大きな罪悪感はなかったであろう。

 この時代の黒人のおかれた過酷な環境、白人たちの残忍さ、集団狂気、しかしながらこの場でこれにおかしいと抗議できる人がいるだろうか。抗議をすればジェシーと同じく火にくべられて終わりだろう。

 私はこの事件を知ったときに大変な衝撃を受けた。時代背景を考慮しなければならないが、このグロテスクさはなんだ。ジェシーの母親や父親、そして友人たちはどう思ったか。これが黒人の少年ではなく、日本人の17歳の少年であったなら日本人はどう感じるのだろうか。

 日本人の少年でふと思い出したが、1992年のアメリカ、南部のルイジアナ州で、日本人の少年が白人男性に撃ち殺されるという事件が起きている。

ja.wikipedia.org

 なんと28年も経つのかと隔世の感すらあるのだが、このときの刑事事件の裁判で、10人いた黒人を含むすべての陪審員が犯人を『無罪』とした。人を銃で撃ち殺したのに、である。私はこのときまだ中学生くらいの年齢であったが、すべての陪審員が全員が無罪!?とかなり大きなショックを受けたのを覚えている。日本人が南部の地域へ行くとこのようなことになりかねないのだという衝撃があった。ニュースに写るご両親の顔が悲痛だった。ご両親にとっては28年の時はまだ止まったままなのではないかと心が痛む。

犯人はいっさいの賠償をすることもなく今にいたるようだ。

私はこのときの裁判にどこか人種差別的なものがあったのではないかと今でも強く思っている。

 私自身は日本に住む日本人であるから、アメリカ本土のことについてどうこうできる立場ではない。だが、Black Lives Matterのムーブメントによって、少しでも社会が良い方向へ行くことを願いたい。

小口先生のツイートに興味深いものがあったので載せておく。

アメリカだけでなく、多くの国でこれからもますます人種の混血は進んで行って、アメリカ人に多くいるが、何人かよくわからないという人が多数派になったとき、ようやく人種差別問題は解決していくのかもしれない。 

 

 

おわり

雑感

つい先日、こんなニュースがあった。

news.yahoo.co.jp

 簡単に言うと、水戸市にある「令和納豆」というお店が、クラウドファンディングで出資を募った。そのときに「生涯無料」というかなり無理したコースを設定してしまった。わずか一万円で一日一食なら生涯納豆つきの定食が無料なのだ。これに1000人以上が殺到した。

新型コロナの影響もあってか店側が悲鳴をあげた。

店側は顧客から無料パスを無理矢理とりあげるという対応に出てしまったのだ。

これを読んでいる方はどう思われるだろうか。私は店側の想定があまりにも甘かったのでは?という気持ちがどうしてもぬぐえない。

 たしかに無料パス狙いで支援した人にしてみればそれは権利だ。しかし、店に無料パスばかりを持った人がつめかけてしまったら、店は収入が落ち込み、最終的には負債を出してつぶれてしまう。店がつぶれたら無料パスもくそもないのである。600円の定食が600円に設定されているのには理由がある。生涯無料というのはさすがに無理があると私は思う。無料パスの使用を「一日一食」ではなく「一週間に一度」くらいにとどめておければよかったのかもしれないが、もう今となってはあとの祭りである。

 

いま、少し気にかかるのはこちらのツイートである。

 おそらくこの人のフォロワーはあと1日か2日で目標の数に達すると思う。が、数ヶ月か経ったとき、はたしてどれだけの人が店を覚えているだろうか?

そして1円弁当を目的に殺到した客が1円弁当を購入できなかったら?客からのブーイングは必至だと思うがそのときこの店主さんはどのように切り抜けるのだろうか。

1円弁当の話だけが一人歩きして、「ここは弁当を1円で売るぞ!」というイメージがついてしまわないかがすごく心配である。

1円で弁当を買った客のうち、どれだけの人数が「ここは以前1円で弁当を売ってくれたから次は800円の弁当を買おう」と思うのだろうか?そう思ってくれるのが店側の狙いなのだが、経済状況が厳しさを増す中で、あまり楽観的な観測はできない可能性もある。

 とはいえ私はこの店の関係者でもなんでもないので、どのような展開になろうとも私には影響はないのだが、店を応援する気持ちがある人は1円ではなくできるだけ定価で購入してほしいと思う。1円で弁当を売るということは、確実に店側がその赤字を被っているからだ。

まだ中学生くらいのころ、人からこんな話を聞いた事がある。その人の話だから主観が入っているのはご勘弁いただきたいのだが、

日本とヨーロッパで、「客が値段をつける」というスタイルのレストランをやったとする。日本の店は早々につぶれてしまう。なぜならヨーロッパの人は、そのとき払う値段をつけるときに「皿、カトラリー、家具調度品、照明、空調、その他環境を構成するものすべて」を計算に入れて払う値段を設定するが、日本人は「料理のみ」に値段をつけてしまうからだ。

レストランにはさまざまな経費がかかっている。皿もカトラリーも損耗する。家具も時が経てば劣化してくる。空間も含めてそのレストランの料理だ。

 この話を聞いたのは何十年も昔のことだから、今はヨーロッパも事情が違うかもしれないが、冒頭の納豆定食で思い出したのはこの話だった。

無料の納豆定食もそうだが、極端に安いものには店側の負担が潜んでいる。だが客側がそうした店側の事情を考慮することはほとんどない。そりゃ立場が違うからそういうものなのだが、無料を何十年にわたって続けるというのは、どう考えても「持続可能」とはいえない。

新型コロナで数多くの個人飲食店が姿を消すことになったが、個人商店の数は高齢化もあって、ここ数十年くらいでものすごく減っているのだ。

www.chusho.meti.go.jp

 『「小売業」はピーク時の1981年から2012年までの31年間で50%減』とあり、かなりの数が減ってしまったことになる。

 新型コロナでも体力のない個人店が潰れ、コロナ後には大手チェーン店しか残らないのではないかとも言われた。ここはまだまだ様子を見なければいけないのだが、日本人の「お客様は神様」という感覚、どこか店側や企業側の努力にフリーライドするようなところが数多くの店を潰してきてしまったように思えてならない。

 店側もそうだ。客のすべてが善意でクラウドファンディングに参加するとは思ってはいけない。いくらでも図々しい人がいるという警戒心を持つべきだ。

 

体力のない個人商店が店の存続をつなげていくには結局はお金が必要だ。だから、このブログを読んでいる人がつぶれてほしくないお店があるなら、できるだけその店でお金を消費してほしい。

1円うなぎ弁当がどうなるか。フォローしてしまうと1円弁当販売につながってしまうので私はフォローするつもりはないが、様子は見守っていきたい。

お近くの人はできるかぎりこの店で定価で弁当を購入してほしいと願っています。

 

 

おわり

5月

今日のブログは愚痴です。

嫌な人はリターンキーで戻ってどうぞ。

 

 

このところ、相変わらず低空飛行をしておりまして。しんどいことも多くてけっこうつらい日々なのですが、つい先日あったなんともいえないことを書かせてもらいます。

読む人によってはしょーもないので、そんなに期待しないでください。

 

住んでいるところから少し行ったところに、おにぎり屋さんがあるんですよ。ショーケースにたくさんおにぎりが並んでるタイプの。

そこでおにぎりを買ったんですけど、会計のときにレジむこうに厨房がくっきり見える作りなんですね。それで厨房が見えたんですけど、その瞬間ちょっとギョッとしたんです。というのは、厨房の中に、エプロンもしない、マスクもしない、頭髪もそのままの金髪の女の子がいて、おにぎりを作っている女性の背後に立って談笑してるわけです。「アッハッハ!やだ〜」みたいな感じ笑ってるわけです。厨房が狭いから、かなり密接して立っています。ごはんに飛沫が入る距離です。

えっ、ちょっと待って、これ誰も止めないの??というのが私の率直な感想だったんですけど、ここで指摘するとクレーマーかなぁと思って無理に自分を抑えてそのまま帰宅しました。

ところが、帰宅してからすごいおにぎりが食べたいけど、やっぱり気にかかってしまう。抵抗感がすごい。

これが新型コロナじゃない時期とかならまぁなんとか気にしないで食べたかもしれませんが、まだ新型コロナが新たに患者が出ている地域なので、これは自分が神経質なのだろうか?とか、グルグルと考えたのですが、やっぱり食べられなくて最終的に破棄しました。

自分が食べたくて買ったわけですから、悲しいやら悔しいやらで。

もやもやして知人に聞いてもらったところ「食品を扱うお店でこの時期にそれはさすがにひどい。本部に言ったほうがいいのでは?」というアドバイスをもらい。

あったことを本部にメールで送りました。

 

すると次の日の朝に、本部の部長さんから謝罪のメールが。

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んで、「お詫びに行きたいから可能な日時と場所を教えろください」というのが書いてあったんだけど、う〜ん、部長さんに謝られてもなんか違うんだよなと思い。

新型コロナの件があるから直接来られてもそれ自体に抵抗があるし。

日時指定して時間割くの?私が?と言う感じになってしまい。(これはこちらの都合だけど、体調がきわめて不安定なので、そういうのがけっこう難しい)

それで、「いや、もういいです…」みたいな感じのメールをしたら「あ、そーですか」という感じになってしまい終了。

せめて商品代は返してほしい…いくらでもないけど。

きっとこの会社と合わないんだな、私。

 

 

おわり