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戒名についてのトリビア(長文)

はじめに

 少し前、ネット上の書き込みで若い女の子が「祖父が亡くなって戒名をつけてもらっただけで30万も取られた!」と激怒しているところを見かけた。いやいや、それは寺院にとっての収入なのだからそこは仕方がないよと説明したくなったが、激怒していて話にならないし、そもそも仏教寺院の経営なんかには興味がないだろうから放置しておいた。このままあの人は怒り続けるのだろうか。

だが戒名について私自身が説明できるのか?と言われると、なんとも言いがたい。そこで調べてみることにしたのがこのブログである。

 

戒名について調べて行くうちに、私の興味は『差別戒名』と呼ばれるものに移って行った。「差別戒名」は大まかに二つに分けられるのだが、一つは「被差別部落民につけられた戒名」、もう一つは「遊廓で亡くなった遊女たちにつけられた戒名」のことである。これらの戒名には差別的な意図があり、あえてそのような戒名をつけることがかつての日本で全国的に行われていた。このブログではこのお題を中心に取り上げる。

 

戒名とはなにか

 戒名関連の本、仏教関連の本を読んでいるとあちこちに出て来るのだが、ブッダが開祖である原始仏教と、現代の日本で幅広く知られている仏教はまったくの別物である。

仏教は中国を経由して日本に渡ってきたため、本来の姿とは大きく宗教として変わってしまったが、それはこの記事のお題ではないためここでは割愛する。

もともと、ブッダの率いた集団は修行僧の団体であって、出家して世俗いっさいを捨てた修行者たちの集団を「サンガ」(僧伽)といった。修行者たちは髪の毛を剃り、「サモン」(沙門)とか「シャクシ」(釈氏)と称したようだが、これは職業名のようなもので戒名ではない。ブッダが弟子に「仏名」を与えるというのがあるが、これもまた戒名ではない。原始仏教において「戒名」は存在しない。というのは、戒名の概念そのものは古代中国にあった風習を取り入れたものだからである。

古代中国では、実名の他に「字(あざな)」を持つという風習があった。戒名の由来はここにルーツがある。少し長くなるが、本の一文を引用する。

法名は俗名でいえば、字(あざな)に対する諱(いみな)に相当する。諱は忌名の意で、生者には別名を字というが死者には諱という。

礼記』に『男子二十冠して字す』とあるように丁年に達すると実名の他に字を持つのが中国の習であった。これが転じて、諱は死者の諡(おくりな)、法名となり、僧侶の場合には、法諱(ほうき)と称し、字は転じて道号となった経緯をふんでいる。

古代の社会ではその人の名は本人に等しいものとされ、本名を呼ばれることは危険だとすら考えられていた。諱が登場したのも、そうした古代的な感覚に基づくものだといえよう。

島田裕巳『戒名』/法蔵館/1991 より

※『礼記』(らいき)は、西暦51年成立の書物。礼記 - Wikipedia

 

このようにして古代中国の風習を取り入れて少しずつ変化していったのが「戒名」である。余談になるが、空海(774〜835) は、みずからのことを「沙門空海(さもんくうかい)」と名乗っていた。釈迦の弟子であるという意味である。空海は没後に『弘法大師』の名を醍醐天皇から贈られているが、これも「諱号」であって戒名ではない。

 

日本初の授戒

 日本で初めて戒名を授戒したのは奈良時代聖武天皇(701〜756)だと言われている。聖武天皇天平勝宝6年(754)、東大寺大仏殿前において『勝満』という戒名を授戒した。このとき、后である光明皇后と側室である中宮も同時に授戒したと言われている。この時代の戒名は二文字であるのが通例で、時代を経るにつれて戒名が長くなっていく。

 ただ日本への仏教伝来は538年ごろと言われているから、これ以前にも戒名を授戒した人はいて、渡来人の仏師の娘の「シマ」という女性が、高麗からの帰化僧である恵便に出家し、『善信尼』という戒名を受けたという記録が残っている(584年ごろ)。そのほか、これまた渡来人の娘である女性が『恵善』という戒名を受戒したという記録が残っているが、いかんせん飛鳥時代よりも前の話で、両者がいずれも渡来人であることから、日本人が公式に…となるとやはり聖武天皇の授戒が史上初ということになる。

 

日本における戒名の広がり

 平安時代中期に絶大なる権力をほこった藤原道長(966〜1028)の戒名は『行覚』という。道長は寛仁3年(1019年)、53歳の時に出家している。『行覚』の戒名はこのとき授けられたものだ。この当時の平安貴族が競い合ったように寺院を寄進したのと同様に、道長もまた巨大寺院の造営に取り組んだ。道長の造営した無量寿院は、現在は現存しないが小さな碑が残っている(京都市上京区荒神口通寺町東入ル ※京都御所のすぐ東側)。

当時の戒名は、仏教に対して多大なる功績があったもののみに対象がしぼられていた。この時代の皇族貴族たちはほぼ皆して仏教の熱烈な信者であったから、戒名はポツポツと増えていく。しかしまだ戒名は大衆のものではない。ごく限られた武将や貴族、仏教に多大な貢献をしうる超富裕層に限られたものだった。寺社仏閣を寄進するのは並大抵の財力ではできない。現在の費用で言うならば数億〜数十億レベルの寄進をせねば無理だった。いわば完全に特権階級であることを示すものが戒名だったともいえる。

 

 鎌倉時代になると戒名がじょじょに長くなっていく。例えば、鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝(1147〜1199)の戒名は『武皇嘯原大禅門』(ぶこうしょうげんだいぜんもん)という。一方で二文字戒名説があり、『嘯原』『嘯厚』『嘯源』などが挙げられている。そのためこの時代には、二文字戒名とそうではない戒名とが入り交じっていた可能性がある。

 さらに時代が下って室町幕府征夷大将軍足利尊氏(1305〜1358)の戒名は『等持院殿仁山妙義大居士』(とうじいんでん じんざんみょうぎだいこじ)といい、鎌倉時代に比べるとぐんと長くなる。尊氏はもともとは二文字戒名『仁山』(じんざん)を持っていたが、長い戒名は没後に名付けられたもののようだ。『院殿』がついた戒名は足利尊氏が最初で、これは天皇皇位をしりぞいたのちに『〜院』を名乗る事が多かったことに配慮したためだったが、尊氏後の大名などが気に入ってこの『院殿』のつく戒名を多く採用するようになった。

 織田信長(1534〜1582)の戒名は『惣見院殿贈大相国一品泰嚴尊義』(そうけんいんでん ぞうだいしょうこく いっぽんたいがんそんぎ)。(長い)

 江戸幕府初の征夷大将軍である徳川家康(1543〜1616)の戒名もやたらと長く、『安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士』(あんこくいんでん とくれんしゃすうよ どうわだいこじ) もしくは、『安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士一品大相国』(あんこくいんでん とくれんしゃ すうよどうわだいこじ いっぽんだいしょうこく)という。(長すぎ)

この時代になると、戒名の長さが格の高さを表すということがあったようなのだが、一体いつ頃からそのような価値観が現れてきたのか、何がきっかけだったのかよくわからない。いずれにしろ家康公がやたらと長い戒名であるように、偉い人は戒名が長いのがこの時代のトレンド。この頃になると 『〜院』よりも『〜院殿』の方が格式が上だという認識が広まっていった。信長や家康公の戒名に見られる『大相国』というのは唐における宰相を指し、『一品』というのは最高級という意味を持つ。ようするに最高に位が高いこの国で一番えらい人という意味である。

 

「寺請制度」のはじまり

 江戸時代初期、寛永12年(1635)になると、「寺社奉行」の設置がはじまり、この制度によって寺請制度が全国に広まる。江戸期の人々はそれ以前の時代に比べて生活も安定し、寺院そのものが全国に幅広く広がりをみせ、檀家制度が定着し、戒名が一般大衆のあいだにも普及しはじめた。続く寛永17年(1640)の「宗門改役」によって、人々は寺の管理する「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)に記載された。これは現在の戸籍制度の原型ともいえるもので、人民の生死、結婚、離縁等が記録された。死者は同じく寺が管理する「過去帳」に、戒名や俗名、死没年月日とともに記録されることになった。寺請制度は明治4年(1871)10月に廃止されるまで、じつに236年の長きにわたって続いた制度であった。

 江戸時代後期の文化元年(1804)には、戒名の禁止事項として、「百姓、町民の戒名に、院号、居士、大姉をもちいてはならない」という布告が幕府によってなされている。これは、これらの戒名が過発行状態にあり、上位の戒名をつけることによって多額の報酬を得ていた僧侶がいたことが推測される。できるだけ立派な戒名が欲しいというのは人の心情としてあたりまえのことだ。江戸期の書物には、戒名に尊卑をつけることへの疑問や、戒名のランクによって遺族に多額のお布施をねだる僧侶を批難した文書などが残っている。冒頭の女の子が持ったような憤懣が、すでに江戸期にはありふれたものであったことが伺える。

こうして院号や居士、大姉号は一部の武家や公家の独占となったが、町民でもこれらの戒名を得た人々もいた。江戸期以前と同じく、仏教に対して大きな功績のあった人、多額の寄進をした人、大きな活躍をした人、大名の推薦を受けられた人などである。

江戸期にその名を轟かせた浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門(1653〜1725)の戒名は、『阿耨院穆矣日一具足居士』(あどういん ぼくいにちぐそくこじ)、『南総里見八犬伝』で知られる滝沢馬琴曲亭馬琴)の戒名は『著作堂隠誉簑笠居士』(ちょさくどうおんよさりゅうこじ)、蘭学者で発明家の平賀源内の戒名は『智見霊雄居士』(ちけんれいゆうこじ)。江戸の町人文化の発展をにない、後世まで名の知れ渡ったこの人たちが「居士」の称号を得ているのは、その活躍もさることながら、支配階級である武家の出自だったという理由があった。

 

差別戒名の歴史

 寺請制度の背景にはキリシタン弾圧がある。寺請制度は、人々を檀家に縛り付けることによって管理し監視下においたシステムであったが、この寺請制度以前から存在していた被差別階級の人たちをこの制度に組み入れたことから、『差別戒名』というきわめて悲しいものを生み出すこととなった。

 差別戒名というのは、被差別部落の人々に対して、『畜男』『僕男』『禅革門』『僕女』『革女』といった特定の戒名をつけ、一目でその墓が被差別部落の出身者だとわかるようにしたという悪意ある差別の一例である。なかには一見わからないが漢字を分解してつけたという陰湿な例もあった。これらの差別戒名は、天文8年(1539)に書かれた『貞観政要格式目』や、寛永3年(1626)に書かれた『無縁無慈悲集』をマニュアルとしてつけられていた。あまねく人々を救済するはずの仏教が、差別を生み出す側にまわってしまったのだ。これは今でも日本の仏教界における大きな暗部のひとつであろう。

『差別戒名の歴史』という本によれば、江戸時代の後期になると金によって身分を買うことが当たり前のようにまかり通るようになっていたという。こうした中で『院号』を金で買ったり、差別戒名をつけないことを条件に高額な金銭を要求する僧のことなどが記録に残っている。この頃の仏教界の腐敗はかなりひどいもので、あちこちの書物にそのさまが書かれている。

 明治4年(1871)、8月28日、大政官によって「穢多・非人」という身分を廃するという布告が公布された(大政官布告第六十一号)。これによって表向き差別戒名の数は激減するが、それはあくまでも表向きの話で、一部地域においては公布後も差別戒名がもちいられ続けた。

 1980年代にこんな話があった。前出の島田氏の本から引用しよう。

差別戒名が問題となってからの話である。

N県I市で字の読めない被差別部落のおばあちゃんに、先祖の墓石に刻まれた名前を前にして、みんなが「これは差別戒名だ」と教えた。ところがおばあちゃんは、「そんなことはない、これはうちのお寺の和尚さんがつけてくれた戒名だから、そんなことはない」と言って、なかなか信用してくれなかった。逆に皆にむかって「あんたらは、わしが字が読めんからといって馬鹿にしているんだろう、噓をつくな!」と言って怒りだしてしまった。

しかし、そのうちに多くの人たちから、そのいわれを説明されると、今度は仏教と寺の坊さんに腹を立て、その怒りのあまり、永年にわたって花を供え、線香を供えて拝み続けてきた先祖代々の墓を土の中に埋めてしまったのである。

『宗教と部落問題』部落解放研究所/1982 より

 このおばあちゃんを襲った失望感はどれほどのものであったろうか。戒名は永遠に残り、墓石には被差別民であったことが刻まれ、死してなお差別され続ける。差別戒名とはそれほどひどいものであった。

またこれも昭和後期のことであるが、被差別部落出身者の人に対して、「差別戒名をつけないかわりに追位をするので300万よこせ」と僧侶が迫ったという話も残っている。これはほとんど恫喝である。遺族側は悔しさに涙を流しながら借金をしてでも戒名代を払うこととなる。このように昭和後期に入っても全国で差別戒名は依然としてつけられ続けていた。

 現在、この差別戒名の見直しが進んでおり、またこのおばあちゃんのように先祖代々の墓石を土に埋めてしまう人や墓石を破壊する人などがいて、差別戒名を残す墓石そのものが減っている。差別はあってはならないものだが、差別があったことを残すこと自体は重要で、ここは難しいところである。

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差別戒名の刻まれた墓石。安政二年(1855)のもの。『革女』などの文字が見える。『ト』の文字にはなにか意味があるわけではなく、ただこの人が「穢多」であることをしめす記号のための文字である。

小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 口絵写真より

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明治初期の寺院の過去帳。大政官布告後の日付だが、過去帳にははっきりと「新平民 元穢多」の文字が見える。戒名そのものは『禅定門』で、これ自体は差別戒名とは言えないが、このような形ではっきりと人々が差別されていた。

小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 口絵写真より

 

遊女たちの戒名

私が遊女の戒名に興味を持ったのは、どこかの本で『売女』という戒名が存在していたというのを目にしたからである。こんなことがありうるのだろうか?と目を疑った。

 

 『生まれては苦界、死しては浄閑寺

 これは江戸期に生まれた言葉で、吉原の遊女たちの生き地獄のさまを表したものである。男たちの性処理道具としての過酷な運命を背負った遊女たちは、その平均寿命はわずか22歳ほどで、ほとんどが年季が明ける前に死んだ。生き残れるのはごくわずかな一握りの遊女だけで、彼女たちもまた、年季があけても行く場所はなく、郭に「遣手婆」として残ったりすることが多かった。というのは、遊女たちは遊郭に売られるさいに「宗門人別改帳」からその名が抹消されたからである。遊女たちは表向き、郭の店へ「子」として入るという養子縁組のような形をとった。投込寺のひとつである成覚寺には、「子供合葬碑」という石碑があるが、これは幼児という意味ではなく「“くるわの子”とされた遊女」の供養のための石碑である。このような形で遊女たちは故郷を捨てさせられ、郭の中で一生を終える覚悟を持たねばならなかった。

 吉原遊郭の歴史をざっとたどると、おおもとの発祥は天正時代(1573〜1593)にさかのぼる。天正15年(1590)には、「岡場所」と呼ばれる違法売春地帯があり、これをときの幕府が把握していた。時代が下り江戸時代初期の元和3年(1617)、「葭原遊郭」を正式に公許した。これが吉原遊廓のはじまりである。

 享和8年(1723)頃の記録では、吉原遊郭にはおよそ8161人の遊女および861人の禿(少女)がいたとされるが、おそらくこの数字は偽申告で、冥加金(税金)を浮かすための過少申告であろうと推測されている。この頃、江戸は世界有数の大規模都市で、江戸全体の人口は56万人、これに武士をくわえると85万人ほどとも言われていた。(武士の数があいまいなのは、武士の人数は軍事機密とされたため、正確な記録を幕府が公表していないからである)

 浄閑寺をはじめとする「投込寺」は、吉原遊郭のまわりに3ヶ所ほどあったと言われている。遊女が亡くなると、裸同然の遺体を簀巻きにされ、人気のない夜中に寺に持ち込まれ、文字通り大きく地面に掘った穴に投げ込まれた。寺ではこの遺体を1朱とか2朱とかの料金で処理を引き受け、過去帳に戒名とともに書き込み、形ばかりの供養をした。江戸時代の貨幣価値を正確に割り出すのは難しいのだが、1朱は一両の1/4〜1/16くらいの価値だそうだから、今の価格に直すと1万〜5万円くらいだろうか。浄閑寺には、寛保3年(1743)から安政の大地震(1855)までにじつに2万5000体を超える遊女の遺体が運び込まれたという。遊女たちの遺骨はまだ現存していて、浄閑寺に建てられた供養塔の中に安置されている。 

jyokanji.com

 

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 出典 https://skyhigh.muragon.com/entry/85.html

 この写真は、西山松之助という人の『くるわ』という本に掲載された浄閑寺過去帳である。こうして見ると遊女の戒名は 『信女』が多い。とある説で、遊女の戒名に『売女』というのがあったという話があるが、今回、自分のちから不足かそういった資料を見つけることができなかった。遊女は売春をするのがなりわいだから、たしかに売女といえば売女なのだが、この戒名はあんまりである。一説に、遊郭の規則を破ったものに対しての懲罰的戒名だったという説があるのだが、こちらに関してもちょっと資料が手に入らなかったため、遊女の戒名『売女』説は、ここでは一時保留にしておきたい。

 江戸時代はかっこたる階級社会であるが、郭の中もまた同様であった。遊女は太夫を筆頭としてランク付けされ、一晩の料金も太夫が圧倒的に高かった。だから、吉原遊郭の中でも著名な遊女にはしっかりとした戒名がつけられていたりする。当時の遊女は今でいう芸能人のような位置づけで、有名店の太夫ともなると顧客が大名だったりしたから、一般庶民からは雲の上のような存在の遊女もいた。 

 名妓として名を馳せた遊女「万治高尾」は、顧客に仙台藩伊達綱宗(1640〜1711)をもち、のちに身請けされた遊女である。高尾には墓がいくつもあって戒名もまた複数あるのだが、『転誉妙身信女』『浄林院法讃日晴大姉』などがある。(大姉がついているところを見ると、これは伊達公によるはからいであろうか)

 浄瑠璃の作品、『明鳥夢泡雪』(あけがらすゆめのあわゆき)は、遊女「浦里(うらさと)」の情死事件を題材にとったものだが、この遊女浦里の戒名は『心浄妙貞信女』で、それほど悪いイメージではない。これは、人々がこの情死事件に強い同情をよせたという市民感情を汲み取ったという可能性がある。そのほか、遊女の戒名には『出入深入信女』とか『一場笑拍信女』『展開両手信女』といった珍妙な戒名が過去帳に残されている。

 

遊女たちの情死と戒名

 江戸時代、色恋沙汰による心中は大変な罪だった。八代将軍徳川吉宗(1716〜1745)の時代、享保8年(1723)に布告された「情死取締布令」によれば、「二人ともが死んだ場合、亡骸を捨て」と、遺骸を弔うことを禁じている。だが、これを忠実に守ると、寺の方は困ってしまう。過去帳に遺体の本名や戒名を書き込まねばならないからである。寺としてはできるだけ弔ってやりたい。この葛藤から『四文字戒名』がうまれた。

 享保年間の記録によれば、年間の情死事件は平均して約19件ほどがあり、女性の約半数が遊女によるものだった。ただ、この記録には武士と遊女の情死は含まれていないため、武士と遊女による情死を含めると情死の実数はもっと多かった。武士と遊女による心中が、江戸中で大ヒットしていた近松心中ものの影響によるものなのか、近松が現実の情死事件に案を得たのか、これはどちらが卵かはわからないが、ともかくこの時代において、武士と遊女の心中事件はけして珍しいものではなかった。

 天明3年(1783)におきた吉原の遊女「綾衣(あやぎぬ)」と、武士藤枝外記による「箕輪心中」は、のちに岡本綺堂によって小説にもなったが、武家の藤枝家は4000〜4500石の禄高があり、これは武家としてもかなりのものだが、それでも遊女を身請けすることは叶わなかった。そのくらい高級遊女の身代は莫大な金額だった。人々はこの心中事件を、「君と寝ようか五千石とろか、なんの五千石、君と寝よ」と歌にまでした。

(※当時の一石は、約一両に等しかったと言われている。一両を今の金額に直すと約10〜20万円ほどなので、藤枝家には現在の価格にして約4〜9億もの財産があったことになる。)

 

 情死した遊女に対しては、『意実浄貞』とか、『心浄妙貞』といった四文字の戒名が与えられた。通常は『貞女』『信女』のため、一目見てそれとわかるようにされている。戒名を一種の罰としながらも、弔いの名をつけるという僧侶の苦肉の策であった。

 明治期には「夕月」という名の遊女がこれまた情死している。このとき彼女に与えられた戒名は『秋月普照信女』であった。というのは、明治期になると法律がかわり、いかに遊女といえども医師の死亡診断書等が必要になったからで、江戸時代のような、遺骸をそのまま穴に放り込むといった乱暴なやりかたは許されなかった。 遊女夕月の墓は今も浄閑寺にある。

 日本の遊郭公娼制度は、昭和31年(1956)、たった3分の審議によってその終焉をむかえた。元和3年(1617)から数えればじつに363年の吉原の歴史はここに幕をおろすことになったのであった。 (なお、このときの法案立法者は衆議院議員の神近市子(1888〜1981)、アナーキスト大杉栄(1885〜1923)の愛人であり、日影茶屋事件で彼を刺して重傷を負わせた女性である。)

  

現代の戒名、何が問題なのか。 

 

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島田裕巳『戒名』法蔵館 より。昭和後期の戒名の一覧表
 

 昭和59年(1984)年、朝日新聞社が全国の寺院に対して戒名料の調査をした。そのデータをまとめたものがこの一覧表である。

 いま、現代のわたしたちが、戒名について怪訝な思いをいだくとすれば、冒頭の女の子ではないが「相場がわからない」「なぜ名前だけで何十万もとられるのかがわからない」ということになる。私自身の祖父母はそれぞれに『大居士』『大姉』の戒名を持っていて、江戸時代には禁止されていたことを思えば、居士も大姉もえらい安くなったもんだなとすら思う。

 これは宗派によるのだが、『〜〜院』の部分、この部分を本山が担当していて、院号を発行するたびに本山に上納金をおさめなければならないという宗派もある。だから檀家のおさめた戒名料のうち、半分くらいを本山がかすめとっていく。檀家や遺族側は、戒名料の高さに憤慨したりもするが、僧侶が全部ふところに隠してると思うのはこれは大きな間違いである。

 そもそも宗教なのだからそれなりのお金がかかるのはどうしようもないことである。ここに憤慨するのであれば自分で戒名をつければよい。自分自身の戒名をつけることを推奨している宗派もある。戒名のつけかたには様々な細則があって、宗派ごとに細かなしきたりがあるが、勉強して自分自身でつけて納得するのがいちばん理にかなっている…と、個人的には思ったりもする。

 

雑談、猫に関する戒名

 私は自他ともに認める猫好きであるから、せっかくなので猫に関するトリビアも集めてみた。猫に関する戒名で、もっとも古いものは、室町時代、奈良の興福寺塔頭である多門院の僧であった長実房英俊(1518〜1596)という人が名付けたものである。この人は『多門院日記』という日記を長々とつけており、その中の元亀3年(1572)8月5日の条に、

一、猫死におわんぬ、不便々々、妙雲禅尼と号す、夢々しい

 という記述が登場し、『妙雲禅尼』というのが猫の戒名であることがわかる。尼とあることからメス猫だったのだろう。「夢々しい」というのは、まるで信じられないといった意味で、愛する猫を失った心情が伝わってくる。

 この『多門院日記』の記述が発見されるまでは、猫の初戒名はもう少し時代が下ったもので、松尾芭蕉の弟子である各務支考(1665〜1731)という人が亡くなった猫につけた『釈自圓』という戒名がもっとも古いとされていた。

 江戸時代後期〜明治時代にかけて活躍した、河竹黙阿弥(1816〜1893)という歌舞伎狂言作者がいるが、この家は大変な動物好きであった。黙阿弥には一人娘がいて、この人を糸女といった。糸女もまた大変な猫好きで、源通寺(※東本願寺塔頭、移転のち、東京都中野区に現存)に頼んで、猫の戒名をつけてもらった。『開花得道女猫 (俗名 ジョコ)』という。咲き乱れる花の道を進む猫のイメージだ。糸女は猫のための法要を寺にわざわざ頼んだりもしていたらしい。

その他、安政時代(1854〜1860)に、『駁斑猫実』という戒名の刻まれた墓石が残っている。これは読み方は「ぶちぶちねこまめ」と読むようだ。猫の俗名は実助(まめすけ)と言った。

 さて、日本一有名な猫の物語といえば『吾輩は猫である』であるが、作者の夏目漱石(1867〜1916)の戒名は、『文献院古道漱石居士』(ぶんけんいん こどうそうせきこじ)という。かの有名な小説の書き出しはこうである。 

吾輩は猫である。名前はまだない。

 実は、夏目家で実際に飼われていた猫には名前がなかった。夏目家の人々は猫を「ネコ」と呼んでいたのである。漱石はこの猫が亡くなったとき、わざわざ知人たちに猫の死を知らせるはがきまで書いているのに、最後まで名前がなかった。よってこの猫には当然、戒名もなかった。

 

一方的な戒名の授与

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出典 https://www.fashionsnap.com/article/2019-03-05/mark-white/

先日、ドラッグストアで、マリリン・モンロー(1926〜1962)の写真がパッケージになっているフェイスマスクを見かけた。私はびっくりしてしまった。マリリンが亡くなったのは、じつに57年も昔のことなのである。半世紀以上昔の写真だが、化粧品のパッケージとしてなんの古さも違和感もない。マリリンのアイコンとしての天才的カリスマ性に私は感嘆してしまった。

 昭和48年8月6日の新聞記事によると、マリリン・モンローの十三回忌のため、世田谷区の浄土宗寺院、大吉寺で法要がいとなまれた。このとき、マリリンに授与された戒名は、『鞠利院不滅美色煩浪大姉』(まりりいんふめつびしょくはんろうだいし) であった。新聞記事によれば、この戒名の相場は約50万円だという。もちろん、本人は仏教徒ではないから、これは勝手にやっているだけの話で、マリリン本人がどう思っているかは永遠に謎である。

 

 私が個人的にもっとも面白いと思っている戒名は、落語家の7代目立川談志(1936〜2011)がみずから名付けた『立川黒雲斎家元勝手居士』(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)である。「うんこくさい」。これだけユーモアがある戒名はなかなかお目にかかれるものではない。さすがである。

※このブログを書くにあたって、古くからの友人である奈良の古刹の僧侶、寺生まれのTさんにご意見をいただいた。感謝である。なお「戒名」は、宗派によって呼び名が異なる。 「法名」「法号」とする宗派もあるが、報道機関の規定にのっとり、このブログでは特別な場合をのぞいて「戒名」に統一した。

 

 

おわり

 

■参考文献

 小林大二『差別戒名の歴史』雄山閣/昭和62年 

島田裕巳『戒名』法蔵館/1991年

三谷茉沙夫『戒名で読む日本史』三一書房/1993年

上村瑛『大江戸文人戒名考』原書房/2004年

藤井正雄『戒名のはなし』吉川弘文館/2006年

山折哲雄・槇野修『江戸東京の寺社609を歩く』PHP研究所/2011年

桐野作人『猫の日本史』洋泉社/2017年